死後の世界(4)~上の世界と下の世界とは何か

人

 

前回は 死後の世界でも 上の世界 に行くことができたケースについて書きました。死後の世界を信じる方であっても、肉体の死は大変ショックなことです。誰もが通る道なのですが、実際に起こった時に冷静な対処ができるかが第一の関門なのです。
今回は、死後の世界でも上と下があるのですが、これはいったい何を以てそう呼ばれるのかを考えていきたいと思います。

なお、 死後の世界 の見解については水波霊魂学に基づいています。

 

「この世での行ない」が 天国と地獄 を分けるのではない

天国と地獄 という言葉があります。この概念は科学ではなく宗教の分野ですので、宗派によってその見解はまちまちです。
しかし、私たちが一般的に死後の世界における天国と地獄を考える時、この世での善行や悪行といったことが行き先を決める大きな要因であると考えておられる方が多いのではないかと思います。

ということは、具体的に善行とは何か、悪行とは何かということが分かれば、善行を積み上げていけば死後は天国に行けるということになります。
それではこの部分をさらに深く掘り下げて行けばいいのかもしれませんが、じつは水波霊魂学の見解で言えば、この時点ですでに間違いですので、これ以上の深堀りは意味がありません。

つまり、この世での善行や悪行によって死後の行き先が決まるわけではありません。

これは少し考えれば簡単に分かることです。
人は他人の心が分かりません。
表面的には笑顔でいても、心の中では強く憎んでいることがあります。しかし、実際に殴ったり脅迫しなければ法律に触れることはありません。つまり良い人でいられます。
表面的にはいつも笑顔を絶やさず、何とかの一つ覚えのように感謝を連呼している人が、裏では多くの人を騙していたような場合でも他界後は天国に行けるということになります。

それではなぜ死後の世界に上下があるのでしょうか?

上の世界に行ける人はどんな人で下の世界に行く人はどんな人なのでしょうか?

そもそも、上の世界と下の世界とは何なのでしょうか?

 

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 死後は「自分に一番適した場所」に自動的に向かう

私達はこの世(物質の世界)で生活していますが、その際に使用する身体が『肉体』です。
一方、死後の世界(水波霊魂学では幽質の世界と呼びます)で生活するために使用する身体もあります。肉体は火葬されてしまって消滅していますので、別の身体が必要なのです。この身体のことを水波霊魂学では『幽体(ゆうたい)』と呼んでいます。

以前の記事で触れましたように、『この世のわたし』と『死後の世界のわたし』は連続した一つの人格です。肉体と幽体は別々の身体ですが、この世で肉体が死んだ後に死後の世界で幽体が生まれるのでは、連続性が途切れてしまいますので一つの人格とは言えません。ということは、肉体が死ぬ前に幽体が既に存在していることが必要となります。

水波霊魂学では、肉体と幽体は重なってこの世で生活していると述べています。幽体は物質ではありませんので肉眼はおろか物質しか計れない機械でも発見することはできないのですが、すべての人は肉体と幽体が重なっていて、この世で起こることを一緒に経験しているわけです。

そして、肉体の死を迎えた際には、幽体が離れて死後の世界に向かうことになります。

死後の世界に行った幽体は、『自分が住むのに一番適した場所』に勝手に向かいます。閻魔大王が「お前はこっち、お前はあっち」と行き先を指示するわけではありません。あくまで自動的に向かいます。

『自分が住むのに一番適した場所』とは、幽体の状態によって決まります。簡単に言いますと、日なたが適している幽体は日なたに居ますし、日陰が適している幽体は日陰に行くということです。これは、好き嫌いの問題ではありません。日陰が適している幽体は日なたで生活することができないのです。そして、日陰でも日なたに近い日陰が適している幽体と、日なたから遠い日陰が適している幽体がいます。日なたから離れれば離れるほど暗い場所になりますが、そこでしか生活できない幽体にとっては最適な場所なのです。

 

もともとは「日なた」しかなかった

この世(物質の世界)にいる現生人類(ホモ・サピエンス)は約25万年前に現れたと言われています。
一方、死後の世界と言われている世界(幽質の世界)は、物質宇宙が誕生するずっと以前から存在していました。詳しいことは割愛しますが、幽質の世界には幽体の存在(いわゆる霊魂)はその時から存在していることになります。
そして、この時の幽質の世界には『日なた』しかなかったのです。

それがある時、幽質界の霊魂がこの世に下りてきました。つまり、現生人類の肉体と重なったわけです。
そして、肉体の死とともにまた幽質の世界に戻ってくるのですが、ここで困ったことが起こりました。

この世に下りた幽体の中に、再び幽質の世界に帰ってきた時に『日なた』にいることができない者が出てきてしまったのです。なぜ『日なた』にいることができなくなったのかといいますと、幽体が損傷したりして状態が悪くなってしまったからです。さらには、この世での記憶を幽質の世界に持ち込んだ者同士が幽質の世界でも対立するようになってしまったからです。

 

もともと幽質の世界にいた存在(霊魂)は、物質の世界の人間に入り込むと失うものが多すぎたのです。

動物の身体は、脳を初めとした諸器官が、幽体のそれを表現しきれない。その為に、かつて幽質界に居た頃の記憶や能力、更には、霊的生命体としての高級な性質、そうしたもの全てが、物質の世界への誕生と共に、実質的に消えてしまうのである。

水波一郎著 「龍」 P.34

 

人類は知的能力が優れていたこともあり、他の動物のようにただ生まれてただ死んでいく存在ではなくなりました。文明を興して科学技術を発展させ、人々が多様な価値観を持つ複雑な社会を作りました。

生まれてから死ぬまで競争し続けるような社会では、人々は気づかぬ間に心理的にたくさんの傷を負っていますし、それが激しい心情を生み出します。それでも競争に勝たなければならないために他人を平気で足蹴にしたり、自分の持っている激しい心情を癒すために他人を死に追い詰めても何とも思わない人が現れました。

 

そうした人間が、その記憶を持ったまま、霊魂の世界にやって来る。そして、人間同士で争うのである。文明を持ち、強者が弱者を従える世界で戦い続ける人間達は、ただ食事を得るために生きていたような人類とは、まるで別の生命になっていたのである。

いつの間にか、霊魂の世界には、人間という、それまで居なかった、凶悪な生命体が登場したのである。

同 P.34~35

 

幽質の世界は、もともと『日なた』しかありませんでした。

そこに争いを持ち込んだのは、人間なのです。争いによって幽体が傷ついてしまった人(霊魂)は『日なた』で生活できなくなってしまいました。

日陰に入った人は、そこでも争いをやめることがありませんでした。そして、さらに『日なた』から遠い場所に移らなければならなくなってしまったのです。

幽質の世界(死後の世界)に上下があるのは、神が造ったのではなく人間が作り出したのです。

他界後に日なた(上の世界)に行くのか、それとも日陰(下の世界)は、他界した時の幽体の状態で決まります。つまり、幽体が健全であれば上の世界に行けますし、損傷があれば下の世界に行くということです。
 

 
【死後の世界についての記事一覧】

第1回 水波霊魂学での見解と死後の世界を知ることの意義
第2回 この世との連続性」と「捨て去るもの」
第3回 最初の関門を突破できるか
第4回 上の世界と下の世界とは何か
第5回 誰もが「夢の中の世界」を経験する
第6回 イメージ したことが実現する世界
第7回 ケンカをすると地獄になる場所
第8回 呼び覚ましてはいけない記憶
第9回 「生きがい」 が見い出せないという苦悩
第10回 霊的に成長 するのか、停滞するのか、それとも後退か
第11回 自分勝手な願い を叶えてくれる神などいない
第12回 相手との 不一致 が悲劇を招く
第13回 なぜ 下の世界 に落ちるのか
第14回 「 宗教の教え 」に隠された本質とは
第15回 思い込み がもたらす不幸
第16回 『 囚われ 』-肉体が消えたあとに残るもの
第17回 無信仰 の人達が集まる街