『 柔軟な心 』は他界後も役に立つかも?
自罰的・内罰的傾向は心を潰してしまう
他罰的・外罰的に対して、責任の所在を自分に向けてしまう人は自罰的・内罰的傾向があるといいます。
この世を生きる上で、表面的に見るのでしたら何でもかんでも他人や環境のせいにして自分を正当化する人に比べれば、人から嫌われることも少ないでしょうし、霊的に見ても、他者からの念が飛んできて幽体を傷つける確率が下がると思えますので、随分ましだと思えます。
しかし、心理的に自分を過度に追い詰めたり、本来自分の責任ではないことが明白なことにまで責任を感じて自分を攻撃してしまうと、結果的には良い結果を招くとは少ないといえます。
なぜなら、他罰的・外罰的であろうと自罰的・内罰的であろうと、物事に対する責任を一方に向けてしまうことに変わりはなく、価値判断に対しての拘りが強いということでは両者とも同じだからです。
自分が悪いと反省ばかりする態度は、他者から見れば謙虚な姿勢だと評価されるかもしれませんが、現状を正しく分析して反省すべきことは反省し、軌道修正すべきところは修正するという柔軟性が欠けてしまっています。
ただでさえ、日常を送っていればさまざまなことが起こるのに、困ったことが起こるたびに自分を責めていたのでは自分の心をますます不安定にするだけですし、仮に他者から「あなたは悪くない」と声をかけられたとしても、素直に耳を傾けることもできなくなる恐れがあります。
したがいまして、物事に対する正しい分析を冷静に行なうことが重要となります。感情的になって一方を責め立てるということは避けなければならないのです。
心の奥が爆発することを防ぐ
さて、水波霊魂学では人間は表面の心だけで生きているのではないと主張しています。
これは簡単に言いますと、肉体の脳が持っている心と幽体という霊的身体が持っている心、さらには霊体という霊的身体が持っている心が融合したものが人間の心であるということです。
この世を生きている私たちは、肉体の脳が持つ心が物事に対する最終的な決定権を握っています。しかし、その過程には心の奥にいる幽体の心や霊体の心もそれぞれ自己主張をしています。
肉体の心はこの道を進もうかと考えていても、心の奥はその道を選んではいけないと主張していることがあります。
ですが、心の奥の心情は表面の心にストレートに伝わることがないので、大抵の場合は、「この道を選ぼうと思っているけれども、どうも心がモヤモヤして即決できない」という状況になります。
このモヤモヤした感情が心の奥の心情であった場合、肉体の心が選択したあとに、自分が主張する道を選んでくれなかったことに不満を持つことになります。そして、選んだ結果が失敗であった時、心の奥は「それみたことか」とばかりに大騒ぎするかもしれません。
人間は完全な存在ではない以上はミスをして当たり前なのですが、たとえ小さな失敗であってもそれが積み重なっていきますと、心の奥は不満をどんどん溜めていくのかもしれません。
心の奥に不満が溜まりに溜まってどうにもならなくなった時、些細なことがきっかけで爆発することがあります。
しかしそれが小爆発という規模であったとしても、その爆発は火山の噴火のようにエネルギーを出し切ってしまえば沈静化するようなタイプのものではありません。蓄積された不満が解消できたわけではありませんので、些細な出来事が起こるたびに爆発します。
その爆発を外部に向けるか内部に向けるのかが、他罰的か自罰的かの分かれ道になります。
どちらにしましても、心に不満が蓄積していて何かあるたびにそれが刺激されて小爆発している状態です。根本的に何とかしようとするのならば、心の奥に蓄積された不満を和らげるしかないのですが、表面の心と違って薬物を使ってもどうにもなりません。
幽体は霊的身体ですので、その心の不満を和らげるためには霊的な処置をしない限り不可能です。
柔軟な心 ー 心が凝り固まらないようにする
幽体の心の不満は、表面の心をも不安定にします。
そして、その状態のまま他界してしまった場合、肉体は消滅しても心理的なものは何一つ変わっていませんので、死後の世界(幽質の世界)でも他罰的な人はすべてを外部の責任にしますし、自罰的な人はすべてを自分の責任にして、他者の意見に耳を貸さなくなる恐れがあります。
他界していわゆる下の世界に落ちてしまいますと、上の霊魂がその場所に行くことが困難になります。
仮に下の世界の霊魂を救ってあげたいと思っても、そのために上の霊魂は自身の霊力を下の世界に滞在できるレベルに下げなければならないために限界というものが存在するのです。それはちょうど酸素マスクを着けずに水に潜れる深さと時間に限界があるのと同じです。
上の世界の霊魂がどうやっても行けないような下の世界に落ちてしまったら、本当に救いの手が差し伸べられることなありません。
もちろん、他界してすぐにそんなに下の世界に落ちることはありません。水に投げた石が沈んでいくように少しずつ下がっていくのですが、仮に救いの手が届く範囲にいても上の世界の霊魂の言うことに耳を傾けないで自分の殻に閉じこもってしまえば、結局はどんどん下に落ちていくだけです。
今回は自罰的・他罰的といった観点から説明しましたが、大事なことは状況が変われば軌道修正できる柔軟さがあるのか否かです。
何が起こっても同じ結論しか導き出せなければ、状況の変化に対応することはできませんし、自分の考えを正当化し続ければ他者の意見に耳を傾けることもありません。
本当は他界してから気づく前に、この世にいるうちから自分の置かれている状況を冷静に分析して、修正すべきは修正するという姿勢が大切なのですが、常日頃から気にかけて実践しませんとなかなか身につけることは難しいと思われます。
ましてや、昨今はちょっとした失言でも大バッシングされる世の中ですし、謝罪しても許してもらえない雰囲気がありますので、現実には修正しても無駄といった状況があるのかもしれません。
しかしながら、それでもやらなければならない理由は、人は死んだら終わりだからではないからです。
この世で蓄積させた負債は他界後もそのまま背負っていかなければなりません。その負債が大きければ大きいほど死後も辛い思いをしなければならなくなります。
この世知辛い世の中を生き抜くことは大変なのですが、それでも自分を過大評価することなく、かと言って卑下することもせず、状況の変化を冷静に受け止めて自分ができる最善の行動をすることが、仮に死後に下の世界に落ちてしまった際にも少しは役に立つのではないかと思います。
このように書きますと、「下の世界に落ちる前提で語るな」と思われる方もおられるかと思いますが、霊的なことを何もしなかった人が上の世界に行けると考えているほうがそもそも間違いなのです。例えればオリンピックでも国体でも、その道でトレーニングして実力をつけた人でないと予選にすら出場機会がないのと同じなのです。
上の世界と下の世界に境界線があるわけでも看板が立っているわけでもありませんが、この世に普通に生まれて普通に死んでいく人が行く場所は、少なくとも確実に上の世界と言える場所でないことは確かです。