『 魔が差す 』ことは我が身にも起こること

魔が差す

 

『 魔が差す 』ことは誰にでも起こり得る

 

『 魔が差す 』という言葉があります。一般的にはふと邪念が浮かんだり、出来心を起こすことによって結果として誤った判断や行動をする様子を表すようです。また、いささか宗教的ですが、自分の心の中に『魔』が入り込むことによって起こるという解釈もあるようでなかなか興味深い言葉だと思います。

 

私たちは、日常生活において常に理性を働かせて判断や行動をしているのですが、何かの拍子に理性のコントロールが効かなくなって感情が『暴発』する可能性があります。

 

ここで言う『暴発』とは、なにも暴力的な行為のみを指すわけではありません。自分の意図しない、あるいは予期しない感情が起こってそれに従って行動してしまうという意味合いで使用しています。

 

魔が差すという現象は、特定の人に起こることはなく誰にでも起こり得ます。ただし、どういう感情が湧いてきてその結果どういう行動を起こすのかは人によって異なります。

 

例えば「酒に酔っぱらって何か気にくわないことを言われたら、人は誰でも必ず相手に殴りかかる」ということでしたら、それは人間の一般的な性質であって『 魔が差す 』ということではありません。すべての人が何らかの刺激に対して同じ反応をするのであれば、それはただの無条件反射です。熱いお湯に手を入れてさっと手を引く動作と同じです。

 

しかし、現実はそうではありません。同じ刺激であっても反応のしかたは人によって異なります。酒席で相手から気にくわないことを言われたとしても、相手にせず聞き流す人もいれば、「もう一度言ってみろ!」と怒り出す人もいます。また、誰に何を言われたかによっても反応は変わってきますし、心身の疲労具合によっても反応は異なるでしょう。

 

ということは、『 魔が差す 』ということは、誰にでも起こりうるだけではなく、それがいつどんな形で起こるかまったく分からないというとても厄介なことであるわけです。

 

 

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なぜ『 魔が差す 』のか?

 

私たちはコミュニティの中で暮らしていかなければいけませんので、人間関係はとても大切です。たった1回でも『 魔が差す 』ことで、これまで築いてきた人間関係を壊してしまうことはなるべく避けたいですし、それによって今後の人生設計が狂ってしまっては目も当てられません。

 

したがいまして、誰の身に起こっても不思議ではないのですから、魔が差して失敗した人を笑っている暇があるのなら、自分はそうならないようにどうすればいいのかを真剣に考える必要があります。

 

まず、『 魔が差す 』のはどんな時かを知る必要があります。これは個人差がありますが、大抵の場合は表面の心、つまり肉体の脳の意識レベルが下がっている時に起こる可能性が一番高いわけです。

 

例えば、気が緩んでいる時、疲れている時、酒に酔っている時がその典型で、こういう時には理性のレベルが低下しています。表面の心がしっかりしているということは理性が正しく機能していることですので、仮に「あいつをぶん殴ってやりたい」という心情が浮かんだとしても、理性で十分抑えることが可能です。

 

しかし、何らかの要因で理性が働きにくくなっている時は、ふだんは心の奥に隠れているような心理が表面に出てきやすくなっているということを知らなければなりません。

 

人の心は一面的でななく多面的なものです。仮に「ズルい奴らを許せない」という思いがあったとしても、一方では、「波風を立てると自分の立場が悪くなるので黙っていよう」という思いもあるかもしれません。しかもこの2つの思いをどちらとも満足させることはほとんど不可能に近いです。

 

こういう場合、どちらかの思いを抑え込んで生活していくしかありません。しかし、ここで大切なことは抑え込まれた側も自分の心の一部だということです。

 

抑え込まれたほうはふだんは隠れてしまっていますが、消えたのではなく常に自己主張する機会を窺っています。その機会とは何なのかといえば、「自分を抑え込んでいるモノが弱くなった時」です。つまり、自分を抑え込んでいる「理性」が弱くなった時が自己主張できる千載一遇のチャンスとなるわけです。

 

 

『魔』は自分の心の中にいる

 

人の心の奥には、「思い」というものがたくさん詰まっています。思い出せるものもあれば思い出せないものもありますが、「思い」自体は心の奥のどこかに残っていて消えているわけではありません。

 

子どもの頃にいじめられたり虐待されたりした時に感じた「思い」は強烈ですから記憶に残っているかもしれません。しかし、親に叱られて感じた悲しい思いや悔しい思いとか、自分だけ他の兄弟よりケーキが小さかった時に感じた不公平への怒りの思いのひとつひとつは、すでに忘れてしまって思い出せないかもしれません。

 

しかし、これらの「思い」は心のどこかに残っていて、普段は理性がコントロールしています。いじめに遭って辛い思いをしたからといって、テレビでいじめのニュースを観たからといって過去に自分をいじめた人のところに怒鳴り込む人はまずいません。

 

それは人には「理性」というものがあるからです。いじめのニュースを見るたびに自分が子どもの頃にいじめられていたことを思い出して辛い気持ちになったとしても、それはそれであって、昨日見たニュースのイジメ事件とは連動しないということは分かっています。
「理性」が効いていればこの程度の思慮分別は当然できるわけです。

 

しかし、『魔が差す』といった状態で起こることのなかには、この思慮分別ができないものがしばしばありえます。

 

例えば、子どもの頃に不公平にされたことで怒っている思いがあったとします。過去の一時期に不公平なことに対して強い怒りを感じたのですが、現在は記憶から消えてしまっているとします。

 

しかし、社会人になって他部署にいる同期が上司にエコひいきされているという噂を聞いたとします。それがきっかけで心の奥に残っていたこの思い(不公平への怒り)が目覚めてしまったとします。当然ながら、表面の心は心の奥でこの思いが騒ぎ出していることを知るわけがありません。なぜなら、表面の記憶から消えてしまっているからです。

 

しかし、会社で毎日この同期と顔を合わせることで、この思いは心の中でどんどん大きくなります。そうなりますと、表面の心に何かしらの変化を与えることがあります。つまり、表面の心が彼を見るたびに何となく不愉快に思うようになりました。

 

そして、ある日、同期が集まった飲み会がありました。参加者はみんな酔っぱらっています。そんな時に例の彼から「おまえ仕事ちゃんとしろよ」と言われたとします。彼は冗談のつもりで言ったのですが、言われた側はそうではありませんでした。

 

もう表面の心の意識レベルは低下してしまっていますので、理性が効かない状態になっていることに加えて、この時とばかりに「不公平は許さない」という心の奥で騒いでいた意識が表面にグッと出てきてしまいました。

 

そうなりますと、普段なら聞き流せることであってもそうなりません。「はあ?仕事ちゃんとしろってどういう意味だ?」から始まって、「お前の評価が良いのは上司にエコひいきされてるからだろ!」

 

飲み会は修羅場と化しました。殴り合いのけんかになってしまったからです。さらにまずいことに彼がエコひいきされている事実はなく噂もただのデマの類いだったのです。こうなりますと、周囲の彼を見る目も変わってしまいます。最悪の場合、職場から去ることになってしまうかもしれません。

 

 

過去の自分が現在に影響を及ぼす

 

この例では「不公平」をされて怒ったのは子どもの頃の出来事です。子どもの頃に受けた「不公平」と同期の彼がエコひいきされているかもしれないことは何の関係もありませんし、ましてそのことで自分が被害を被っているわけでもありません。

 

それなのに、噂を信じて同期の彼に対して何かしらのレッテルを貼ったうえに、結果的に暴力沙汰を起こしてしまったのですから、周囲から見れば同情の余地はありません。

 

「あの時アイツが俺を馬鹿にしたからだ」とか「エコひいきされているくせに」とか自分を正当化するための理由はいろいろ浮かぶかもしれません。

 

しかし、事の真実は如何なる理屈を並べ立てても分からないのです。なぜならこの人が飲み会で激高した理由は「子どもの頃に不公平は許さないという怒りの心理が心の奥にあって、それが同期の彼の一言で暴発したから」です。

 

『 魔が差す 』可能性は誰の身にも起こり得ます。そして、それは心の奥を知って対策を打っていればある程度回避できる可能性もあります。

 

人の心は複雑であり、表面の心も知らないことがたくさんあるということを知って、もしも心の奥に自分の人生を壊しかねない思いがあるのならば、それが暴発する前に何らかの対策を打っておくことが重要なのです。