『 罪を憎んで人を憎まず 』と感情優先社会

罪を憎んで人を憎まず

 

 

罪を憎んで人を憎まず vs 感情

 

 

罪を悪(にく)んで人を悪(にく)まず

犯した罪は罪としてにくむべきであるが、その罪を犯した人までもにくんではならない。罪を犯したからといって、それだけでその人の一生を評価してはいけない。君子はその罪を悪んでその人を悪まず。

 

精選版 日本国語大辞典より

 

 

私はこれまで「罪を憎んで人を憎まず」だと思っていましたが、辞書を引きますと「罪を悪んで他人を悪まず」となっていまして、この歳になって一つ賢くなりました。

 

さて、この言葉を実践することはとても難しいと思います。特に被害に遭った場合は、自分自身や自分の愛する人が傷つけられているのに、加害者に対してこの言葉のように接することは非常に困難です。仮に私がその立場になったとしたら、自慢ではありませんが聖人君子でもなくいつまで経っても未熟な人間ですので、恐らく強い怒りと憎悪を抱くだろうと思います。

 

しかし、昨今の事件報道に対するマスコミや一部のネットでの、何かしら失敗してしまった人に対して地獄の底に叩き落とさないと納得できないといわんばかりの過剰な反応には、違和感を感じるとともにかなりうんざりしています。

 

当事者と話を聞いたわけでもないのに、勝手な憶測や想像で「被害者の気持ち」を語っている人達は、いったい何を根拠にしたり顔で語っているのかまったく不思議でしようがありません。

 

この国には法があって、それを犯した人は裁かれるのは至極当然なことです。ところが法を犯したわけではありませんが倫理上問題がある行為に対して、昨今は感情が法を超えるがごとき主張を堂々と行う人達が増えてしまって、法の上に人の感情があるヘンテコリンな状況になっていると感じています。

 

「憎む」ことが日常になってしまう社会は、感情優先社会であってそこには理性など存在しません。

 

 

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人を憎まないということ

 

「人を憎んで(悪んで)人を憎まず(悪まず)」の辞書的な意味は冒頭に引用した通りなのですが、なぜ罪と人を分けなければいけないのかといえば、罪を犯した後も人は生き続けないといけないからです。

 

罪は法によって裁かれればいいのです。しかし、人は罪を償って社会復帰しなければいけないわけです。

 

人というのは私も含めて全員が未熟者なのです。未熟者が常に正しい判断ができるわけもなく、失敗をすることもあります。失敗をしてしまった時にはそのことを反省して同じ失敗を繰り返さないように修正していけばいいのです。

 

被害者の気持ちが大切なのは言うまでもありませんが、それとは別に自己を省みて前進していくことが求められているのです。被害者が強い憎悪を抱いているから自殺しないといけないわけでもありませんし、逆に被害者が寛容だから反省もしないでのうのうと生きていいのでもありません。

 

仮にある人が何かしら失敗をしたとします。その人は社会的地位があり著名な人だったので、感情優先の人達から人間性を否定されるほどの罵詈雑言を浴びてすべてを失ってしまいました。人々はその人が抱いていた苦悩にはまったく無関心で、起こった事件にのみ着目して被害者から話を聞いたこともないくせに、被害者の気持ちという剣で加害者となったその人をずたずたにしました。

 

月日が経って、その人はきちんと償いも行なって、自分に向き合い、同じ失敗を繰り返さないように血の滲むような努力をしました。もうこの人は心身ともに事件を起こした時のこの人ではなく完全に生まれ変わっていました。

 

この人は社会復帰をしました。この時、この人と会った人はどう思うでしょうか?

 

「あの時、あの事件を起こした人・・・。」

 

多くの人はそう思うでしょうし、その思いは行動にも表れますので、その人とは距離を置いたりするかもしれません。

 

人は他人の心が分かりません。ということは、過去の苦悩を克服できているのか、未だに闇を抱えているのかは外見からは分かりません。

 

人はできることなら、失敗しないに越したことはありませんし、失敗が避けられないのなら大きな失敗にならないようにすることも大切です。

 

なぜなら、いくら努力してもいつまでも経っても過去の失敗を指摘する「心ない人たち」がいるからです。

 

心ない人とは、たった1回の失敗でその人の人間性を判断してしまう人です。

 

もちろん被害者になってしまった場合は別として、利害関係がない場合は「罪を悪んで人を悪まず」で臨むべきだと思います。他人に対する非情さは、天に唾するのと同じで自分に返ってくるものだと思います。