悪魔の心 ~心の中で囁く悪魔の正体

悪魔の心

 

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人の心の中には天使と悪魔がいると思っている方は多いと思います。例えば、何かが起こった際に、心の中で天使と悪魔が自己主張をして互いに譲らないので、どうしたらいいのか分からないといったようなことが起こります。

この時、心の中で互いに自己主張しているのはいったい何者かということを、水波霊魂学の見地から書いていきたいと思います。
今回は「 悪魔の心 」とはいったい何者かについてです。

 

幽体という霊的身体

 

人がこの世に生まれる時(厳密にいえば受精の時ですが)、幽質界の霊魂(幽体)の一部が、肉体と重なって生まれてきます。つまり、私たちは例外なく肉体と幽体を併せ持つ生命体です。

 

人の心といわれるものは、肉体の脳を使用している心と、肉体と重なっている幽体の脳を使用している心があります。そして、幽体の心は肉体の心とは別個の存在であり、肉体の心にさまざまな影響を与えています。特に、肉体の心が何らかの原因で迷ったり弱ったりすると、強く自己の意思を主張するようなのです。

 

この時、幽体の心があまりに強く自己主張をしますと、肉体の心はそれに引きずられるようなかたちになります。

 

私たちが子どもだった頃を少し思い出してもらいますとご理解できると思います。

 

最近の子どもはお行儀がいいのかあまり見かけないですが、私が子どもの頃はおもちゃが欲しくてそれが叶わなかったときなどは地団駄を踏んで悔しがって、おもちゃ売り場の床に寝っころがって泣きわめいたものです。

 

この時は肉体の心と幽体の心は一致団結しておもちゃ獲得作戦を実行していましたが、肉体の心は教育を受けて、しだいに社会の規範を重視するようになるのに比べ、幽体の心はほとんど何も変わっていません。なぜならば、教育を受けているのは肉体の心だけだからです。

 

ルールを破って怒られるのは肉体の心であって、幽体の心は直接怒られているわけではありませんので、幽体から見れば、「肉体がヘマをやらかした」程度の認識らしく、そうなりますと、幽体の心は本来のわがままな心を持ち続けたままになります。

 

じつは悪魔の心だと思っているのは、幽体の心なのでした。

 

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教育された肉体の心には無教育な幽体の心が 悪魔の心 に見える

 

肉体の心は成長すれば知性と理性を身につけ、社会規範を守り、周囲の目を気にするようになりますが、幽体の心はそんなことはお構いなしに、わがままであり、自己の欲望を素直に主張しているだけです。

 

肉体の心と幽体の心のギャップが大きすぎると、心の中に浮かんできた幽体の心を感じたとき、「私の心には悪魔がいる」とか「私は何て性格が悪いのか」と感じてしまいます。しかし、ここで悪魔の心だと忌み嫌っているのは、幽体という自分自身(肉体)の相棒の心であって、それは肉体と同じ経験をして同じ記憶を共有しており、ある出来事についての評価が異なっただけだということです。

 

仮に職場の上司や近所の奥様が大嫌いでも、その感情をストレートに出さないのは人間社会のたしなみであり、大嫌いという感情そのものが悪いわけではありません。

 

誰を好きになろうと嫌いになろうとその人の自由であり、善でも悪でもありません。

 

子どもの時にケーキの上にのっているイチゴが私だけ小さいと言って大騒ぎしたり、トンボの羽をちぎって遊んだり、友達がテーマパークに行ったから自分も行きたいと思った心が、そっくりそのまま大人になっても心の中にあるだけです。

 

繰り返しますが、そのこと自体に善も悪もないのです。

 

したがいまして、「その部分」を悪魔の心だといって目を背けたり、自分の心から失くしてしまおうと無理に頑張るのは考えものです。なぜなら、肉体の心も幽体の心も「わたし」だからです。

 

「その部分」を無理やり排除しようとすることは、幽体から見れば肉体によって自己が否定されたと感じます。その時の幽体の不満や怒りは計り知れないほど大きくなります。そして、その反動がいつか取り返しのつかない事態を引き起こすことになります。

 

人は地上に生きている間は、地上の世界のルールに則って生きていかないといけません。しかし、幽体が自分の心をこの世界に吐き出せば、幽体はストレス解消になるかもしれませんが、肉体にとってはそれで地位も信頼も財産も失うかもしれません。

 

そうならないためにも、自分の心との付き合い方を今一度見つめなおす必要があります。

 

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