マインドフルネス瞑想 ~客観的な傍観者としての視点

傍観者としての視点

 

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マインドフルネスストレス低減法

 

ジョン・カバットジンが1979年にマサチューセッツ州で始めたマインドフルネスストレス低減法(Mindfulness-based stress reduction : MBSR)は、当初は医学的に治療が困難な慢性疼痛に対する対処法として始まりました。

 

したがいまして、MBSRでは「痛みを心でコントロールする」ということを重要視しています。下記に紹介しておりますカバットジンの著書でも、一つの章を立ててこのことについて詳しく述べられています。

 

MBSRは8週間のプログラムを通して、主に瞑想を利用した「痛みとの付き合い方」を実践していきます。MBSRの効果については、カバット・ジンらによって1980年代よりさまざまな研究が行なわれ、慢性疼痛患者の薬の使用量が減ったり、さまざまなストレスを起因とする疾患についても一定の効果が望めることが分かっています。

 

 

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客観的な 傍観者としての視点 とは?

 

マインドフルネス瞑想は、宗教的要素を取り除き宗派を超えて誰にでも適用可能だということですが、瞑想を通じた気づきや自分自身の心と身体との関係を突き詰めていきますと、やはり科学では割り切れない部分が多くなってきます。

 

カバットジンはこの点については触れていませんが、肉体と魂の関係というのが垣間見えるように私には思えます。例えば、以下のような記述です。

 

痛みに対する思いや感情というものが、自分そのものではないということ、つまり、“自分”は、痛みそのものでもなければ、思いや感情に支配されているものでもない、ということに気がつくようになります。
意識は、自分の中にそうした思いや感情が存在するということはわかっていますが、それにしばられているわけではありません。しかし、痛みに対する自分の思いや感情、体の痛みの感覚、体自体を、自分と同一視してしまうと、ますます混乱して、“客観的な傍観者としての視点”を維持できなくなってしまいます。

ジョン・カバットジン著「マインドフルネスストレス低減法」 P.215~6

 

今この瞬間に注意を向けることで、あるがままの自分を感じることが大切なのですが、じつはそれを“自分”そのものとしてではなく、もう一人の自分が客観的に眺めているという視点が重要だということです。

 

繰り返しますが、カバットジンはこれを神秘的な意味や宗教的な意味で解釈するように求めているわけではありません。

 

しかし、自分の魂と肉体は別物なのだという、宗教的な観念を持っている人とそうでない人では、このあたりの理解度に差が出るように私は思います。

 

肉体と心は一蓮托生であり、肉体に死が訪れれば心消滅するということであれば、この考え方は的を得ていないということになります。

 

ところが、カバットジンはあくまでも宗教性を取り除いたはずのマインドフルネス瞑想で次のように述べます。

 

体というのは、一緒に人生を歩んでいかなければならない伴侶であり、無視することはできませんが、自分そのものではないのです。便利で不思議な媒体ですが、自分ではないのです。
体が自分ではないというなら、“体の痛み”も自分ではないということになります。そして、自己の存在感に入り込むことができれば、あなたと“体の痛み”との関係も変わってきます。あなたも、瞑想を通じてこういう体験をすることによって、痛みを受け入れる余裕を作り出し、痛みと共に生きる自分なりの方法を開発することができるでしょう。

ジョン・カバットジン著「マインドフルネスストレス低減法」 P.217

 

マインドフルネス瞑想によって、体の痛みが消えるわけではありませんが、自分なりの痛みとの付き合い方を作り出すことが大切だということです。

 

体の痛みや心の痛みは、もちろん自分の一部には違いありませんが、自分全体ではないと気づくことは大変有効であると私は思います。

 

ここのところをきちんと理解しないまま、マインドフルネスの本を読んでただ瞑想しても大きな効果は望めませんし、ましてや前回も書きましたが、これを自己の願望実現のために使っても効果があるとは思えません。

 

まずは正しいマインドフルネス瞑想というものを勉強してみたいと思われる方は、ジョン・カバットジンの著作にあたるのが安心だと思います。

 

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