『 未熟な霊魂 』について ~ 宗教系の霊魂

宗教系の霊魂

 

 

 

私が『 宗教系の霊魂 』に寄って来られた話

今回は生前に宗教に深く関わっていた霊魂が地上の世界に戻ってきて人間に関与するというお話です。

まずは私自身の体験談を書きたいと思います。

私が契山館に入会して1年ほど経った頃にはじめて公開霊査というものを受けました。公開霊査は、契山館で不定期に開催される集会で、希望者(数名)に対して行なわれます(余談ですがこの集会は会員でない方も見学できますが、事前に問い合わせが必要です)。

 

この頃(2003年)の私は、神伝禊法の初伝と鎮魂法の初伝を習った頃で、初めての公開霊査にとても緊張したことを覚えています。

 

公開霊査ではまず、幽体オーラについての話から始まりました。この時の私の状態は、頭の上あたりは横に広くオーラが伸びていましたがなぜか上には伸びていない、胴体になるとしぼむように少なくなって、足のあたりになるとさらに小さくなっていると指摘されました。頭部の幽体オーラがもっと上に伸びれば高級な霊魂が見やすい状況になって影響力を持ち始めますが、水平にばかり伸びていてはまずいですし、腰から下になると幽体オーラ自体が出ていないので、良からぬ霊魂から見たときに隙があると思われるので対策が必要であるとのことでした。

 

まあ、ここのところは予想通りと言いますか、ちょっと霊的トレーニングをしたからといって急に良くなるわけはないと思っていましたので割と冷静に聞いていました。ところが、ここから話が思わぬ展開を迎えます。それは私とある霊魂との関わりについてでした。ここからは実際に指摘された内容を書きますが、表現や文言については一部変更しています。

 


 

生前にある宗派で修行した僧侶の霊魂があなたになぜか深い関心を持っているようで、時々寄って来ている。これは、いわゆる悪い霊魂ではないので、別に付きまとうということはないが、いわば、善意で寄って来ている。その霊魂には、喉、腰、足首のあたりに幽的な気を発し、それによって霊力を身につけるという主義主張がある。これはかなり危険であり、霊魂の目から見ると、これは有効な技に見える。

こうした霊魂が良かれと思って寄ってくるので幽体オーラに不調が出る。つまり、霊魂から幽的な気を頭頂部に当てられるために幽体オーラが横にばかり伸びて上には伸びないという不調が起き、腰や足首などに幽気を当てられるたびに自分の身体にある幽気との間に違和感が出る。そのために下半身は幽体オーラが出ない。

しかし、霊力をもたらすなどと言いながら、結局は、自分が思うように扱いたい。扱うことができれば、霊力を持たせることができるという主張にすぎず、これは霊的な向上の逆を行くもの。

この僧侶の言う「技」とは、大日なる如来の技であり、必ず大宇宙と一体になり、やがて、己と己、つまり、仏と霊魂自体、それと人間が一体となることが即身成仏の道と考えている。ゆえに、一体となるためには、己の幽気を放射し、己の幽気が人間の幽体の幽気とやがて同化する。そして、最終的には、意識をも共通になるがごとしになれば、即身で成仏するなどという考えの様子。

が、これは霊魂の学に言わせると、いわゆる憑依。憑依し、己が乗っ取ること。そして、霊力を持つと言いながら、やがて支配してしまう。己はなくなり、この身このまま、即身成仏したという。幽体オーラはやがて出なくなり、幽体はどんどん落ちてゆき、やがて、肉の身も朽ち果てる。こうした技を正しいと信じている。

この霊魂は、いわゆる邪霊ではなく、悪霊でもなく、修行者であり、正しい道を求める者ではあるが、霊魂と人との関係、即身により成仏するという考えがまるでわかっていない。ゆえに排除するしかないが、本人は善意なので、放っておくわけにもゆかず・・・。

さて、せっかく霊的なトレーニングを少しできるのだから自分できっちりと処理したい。そのためには、幽体オーラの状況をなるべく整えた上で自身の守護霊に対し祈念する。自分の霊的な進歩を阻害する、あるいは邪魔する霊魂とは「縁を切りたい」ときちんと祈念する。自身の自由なる意思が念として正しく出れば、守護の霊魂はそうした外部から来る霊魂を確実に排除することができる。が、それをきちんと自分の意思で伝えないと守護の霊魂も何もできない。

いうまでもなく、人は自由な意思を持っている。相手が邪心も何もなく好意で寄ってきて、それを自身が望むのであれば、守護の霊魂といえども、第三者にすぎず、何一つすることはできない。自分の自由なる意思が確実に拒絶を示すならば、初めて排除できる。排除は簡単にできる。要は、自由意思が合致しないということを理解させるだけ。なぜなら、別に悪霊ではない。己が良かれと思って来ている。本人が望まないのに無理に何かしらやるというのであれば、それは邪悪になる。ゆえに、確実に拒絶するという意思表示さえできれば自然に消えていく。そうすれば、今後、こうしたところに幽気の問題は起きない。起きなければ、今後、霊的にトレーニングすることにより確実に良好な状態が得られる。とりあえず、今はそれが一番大事。あとは自身の努力で何とでもなる。

 


 

霊魂が寄ってくるなんてことは、完全に他人事だと思っていましたのでかなりショックを受けました。

 

この霊査を受けた後は、自宅にいても、ふとした時に、今もしかしたら寄ってきてるのかなと思うと、正直怖かったです。この時は、霊的トレーニングをやっていて本当に良かったと思いましたし、守護霊という存在の大事さを再認識しました。

 

幸いにも私の場合は、霊査で指摘されたように、守護霊に毎日お願いしましたのでこれ以降、良からぬ霊魂に寄られたと言われたことはありません。

 

しかし、なぜ僧侶の霊魂が私に関心を抱いたのかという疑問が残りました。これについては最初は心当たりがなかったのですが、後になって思い出したことがあります。それは契山館に入会する10年以上前に、ある霊能者に深い関心を抱きその方が販売していた商品を購入して身に付けていた時期がありました。

 

そして、ある流派を修行した霊魂と件の霊能者は同じ流派でした。ずっと忘れていましたのでこの事実を思い出した時は「なるほどそういうことか」と得心が行きました。

 

 

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宗教系の霊魂

 

宗教系の霊魂は、宗派によりますが、病気を治療するための修法、呪いや祟り、敵を倒す呪術などを知っている可能性があり、これが本当に効果がある場合があります。

 

さらに死後も生前の価値観を引きずり自らの信仰を至高なものと位置付けているタイプが多いように思います。恐らく、霊能力や超能力願望のある人はこういうタイプに目を付けられる可能性が高いと思われます。実際、私は子供の頃から霊能力や超能力に興味があって、そういう能力を身に付けたいと思っていた時期がありました。

 

彼らはそれらの能力を身につけたいという念を強く出している人を見つけては、「私が手伝ってあげよう」とばかりに手を貸そうとするのかもしれません。これが善意であるのでしたら彼らは悪霊・邪霊の類ではありません。彼らに言わせれば「この人間が望むから手を貸しているのだ」ということなのでしょう。

 

この場合は、私の霊査結果にもありましたように、本人と霊魂の思惑が一致してますので、その場合は守護霊といえども、人間の自由意思に干渉することはできませんので、知ろうと知るまいと未熟な霊魂と二人三脚の人生を歩み、最悪の場合、その霊魂の意のままに操られることもありえます。そして他界後はその霊魂の子分としての人生が待っています。

したがって、未熟な霊魂と縁を付けたくないのであれば自身の守護霊ときちんと繋がっている必要があるのですが、現実は守護霊から直接認識できないだけではなく、守護霊と人間を繋ぐ役割をするはずの補助の霊魂からも見えないという悲惨な状態になっている人が増えています。上の霊魂との霊的な距離が大きくなるということは、下の霊魂との距離が小さくなるということです。つまり現代の人達は未熟な霊魂に縁がつきやすい状態だということです。

 

未熟な霊魂といっても、人に寄ってくる目的は違います。しかし、結果はあまり変わりません。彼らのせいで、この世で辛い思いをすることもありますし、死後も辛い世界に落ちてしまうという現実は、生きている間はまったく実感できませんが、本当はとても大事だということに気が付いて頂けることを願っています。これに気付けるかどうかが分かれ道だと思います。

 

 

(続く)