心の奥 を探るために瞑想してはいけない
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心の奥 を探っても良いことは何もない
瞑想を行なっている人の中には、自分の心を探ろうとして、意識を集中する人がおられます。
結論から言えば、これはやってはいけないことです。
書店に行きますと、無意識といわれる意識の奥の部分には何やら光のようなものが潜んでいて、この光のようなものにアプローチすることによって、自分の真の姿を知ることができるとか、願望を実現できるといった内容の本をたまに見ることがあります。
人の価値観はそれぞれですし、私はそういったことに何の興味もありませんので、それらの本について批評することはありませんが、知らないことで自分が損害を被るだけでしたら自業自得ですが、これが不特定手数の人になるわけですから、これは困ったことだと思っています。
さて、目を閉じてじっとしていますと、いろいろと雑念が湧いてきますが、これを抑えつけて自身の心の奥を探索しようと意識を集中すると何が起こると思われるでしょうか?
忘れてしまっている幼少期の記憶が蘇るとき
心理学では、幼児期に受けた心の傷が大きいと、成人になってそのことを忘れていたとしても、思考や行動に影響を与えるという考え方があります。
もしもこの考え方が正しいとするのならば、表面の意識(今、自分自身が分かっている意識)から無意識に向かって、スコップで土を掘るような作業をして出てくるのは、光のような宝物ではなく、パンドラの箱です。
くじに例えれば、当たりは宝物1個ですが、ハズレの「蓋の壊れたパンドラの箱」は無限といった感じでしょうか。
ただでさえ忙しいのにわざわざ時間を割いて、閉じているパンドラの箱を開けるようなことをしても有益なことは何一つありません。
瞑想で意識の奥を探ってはいけませんし、そもそも探る必要はないものです。
そんなことをしていると、いつか必ずパンドラの箱を開けることになります。
このことで、これまで忘れていた、あるいは心の隅に追いやっていた心情が目を覚ますかもしれませんんし、それらの心情はたいていの場合、人生を不幸に向けて走らせてしまう可能性が高いです。
ギリシャ神話でゼウスはパンドラに渡した箱の中に「あらゆる災い」と「希望」を入れたと言われていますが、箱から「希望」だけを取り出すことはできません。
箱を開ければ、最初に噴き出してくるのは「災い」です。
人の心は次々に噴き出される「災い」に耐えられるほど強くはありません。
間違った瞑想は、身を滅ぼします。
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