守護霊(16)~哀しき霊的格差

分岐点

 

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 「守護」という誤解

 

水波霊魂学での守護霊の定義は、巷で言われる守護霊のイメージからあまりにかけ離れていますので戸惑われるかもしれません。「守護霊が守護しないなんてありえない」と思われるかもしれません。

 

しかし、現実がそうなっているのでどうしようもありませんし、じゃあ証明してみろと言われてもできないのがとても悩ましいのですが・・・。

 

正確にいえば、「守護しない」のではなくて「守護したくてもできない」のです。

 

大事なことですから何度でも書きますが、人間が「守護霊を求める」という自由意思を行使しないと、守護霊といえども担当の人間に対して何の関与もできません。守護霊がそっぽを向いているのではなく人間がそっぽを向いているのです。

 

ある人の守護霊は開店休業状態で、ある人は守護霊と交流した上に何名もの指導霊が共同で指導しています。

 

この格差は一体何なのでしょうか?

 

地上での経済格差、特に貧困は本人の責任とは言えないことも多々ありますが、霊的な格差については確実に本人の責任といわざるを得ません。

 

この現実をぜひご理解いただきたいと思います。この格差は他界後にとてつもないものとなって眼前に現れるのです。

 

 

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 「そこそこ」の世界 みんなで往けば怖くない?!

 

「何となく死後の世界もあるかもね」と思っている方の多くは、自分は他界後、天国は無理だとしても「そこそこ」の世界には行けるだろうと漠然と思っておられるかもしれません。

 

ここで言う「そこそこ」の世界とは、そんなに上の世界ではないけれど下の世界ではない、いわばちょっと上の世界のことです。

 

しかし、ここで考えていただきたいのは、地上の霊的状況と他界後に行く「そこそこ」の世界には関連があるということです。現代のように地上の霊的状況が下がれば他界後に行ける「そこそこ」の世界も相対的に下がっていくのが現実です。

 

人々の中に信仰心が残っていた昔は、神社などにも「そこそこ」の高い気がおりていました。人々は参拝や祭りなどで神社を頻繁に訪れることで、自分は何も知らなくても高い気を吸収できていました。ですから、何もしなくても他界後は「そこそこ上の世界」に行くことが可能でした。

 

ところが、現代で信仰心を持つ人は、精神的に弱い人とか変人だとか言われる世の中です。また、神の存在に懐疑的というワケのわからない神主までいるようですので、そのような神主がいるような神社に高い気などおりるわけがありません。

 

最近は、祭りや初詣で神社を訪れても高い気を吸収するどころか、むしろ他人の低い幽気を吸っているのが現状です。

 

現代では何もしないで他界すれば「そこそこ」下の世界に落ちるのは、至極当たり前のことなのです。

 

私たちは、高貴な存在を自分の意思できちんと求めなければ真の意味で救われることはありません。

 

守護霊は、求めさえすればいつでもどんな時でも確実に味方になってくれる存在です。

 

(続く)

 

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