貧困と自己責任 ~子どもに何の罪があるのか

 

貧困と自己責任

 

 

深刻な子供の貧困問題

 

最近、貧困は自己責任だとSNSで主張された方が叩かれているのを見て、自己責任とは何かということが少し気になりましたので調べてみました。

 

自己責任
自分の判断がもたらした結果に対して自らが負う責任。

(広辞苑第6版)

 

今に始まったことではありませんが、子供の貧困が社会問題になっています。貧困はいつの時代も存在しますのでゼロにするのは不可能に近いのですが、最近、貧困も自己責任などと紋切型態度で主張をすることに少し違和感を感じています。

 

それでは、統計としてはどうなっているのか気になりましたので、平成28年の国民生活基礎調査を見てみます。

 

平成27年の貧困線(等価可処分所得の中央値の半分、熊本県を除く。)は 122万円となっており、「相対的貧困率」(貧困線に満たない世帯員の割合、熊本県を除く。)は 15.6%(対24年△0.5ポイント)となっている。また、「子どもの貧困率」(17歳以下)は13.9%(対24年△2.4 ポイント)となっている。
「子どもがいる現役世帯」(世帯主が18歳以上65歳未満で子どもがいる世帯)の世帯員についてみると、12.9%(対24年△2.2ポイント)となっており、そのうち「大人が一人」の世帯員では50.8%(対24年△3.8 ポイント)、「大人が二人以上」の世帯員では10.7%(対24年△1.7 ポイント)となっている。

(厚生労働省が実施した平成28年国民生活基礎調査より)

 

貧困線(poverty line)とはそれ以下の収入では一家の生活を支えられないと認められる境界線のことをいいます。

 

相対的貧困率が15.6%ということは、日本人の約6人に1人が貧困線以下で暮らしていることになります。また、子供の約7人に1人が貧困状態にあり、さらには大人が一人の家庭(父子家庭や母子家庭など)の貧困率は50%を超えています。

 

統計的には前回調査より改善がみられるようですが、依然として深刻な状況にあるといえるでしょう。こんな状態でインフレ誘導されたらこの国はいったいどうなってしまうのか考えるだけでぞっとします。

 

 

スポンサーリンク

貧困対策に本気でない政治家

 

こういう状況を招いた元凶は当然ながら政治家です。しょせん政治家は自分の票に繋がらないことには消極的だということです。

 

この国の人たちはある時期を境にしてとてもおとなしくなりました。それを国民性という方もいますが、私はそうは思いません。

 

私は歴史的に見てもこの国の人たちは基本的に闘争心旺盛だと思います。ほんの数百年前には農民一揆や一向一揆もあちこちで起こっていましたし、戦後では安保闘争や学生運動など、本気で怒ったらとことん突っ走るのがこの国の国民性なのではないかと私は思います。

 

政治家や官僚たちは、奇妙なほどおとなしくなってしまった国民に安心しきってあぐらをかいているようですが、こんな状況がこの先もずっと続くとは思えないです。

 

もしも、今の状況があたかも地震が起こる前のようにエネルギーが溜まりに溜まっている状態であるならば、いったん爆発すれば大変なことになるという危機感が皆無のような気がしてなりません。

 

とは言いましても、民主主義は数が力であり、国民がバラバラだと結束力も生まれませんので、結局バラバラのまま個々に死んでいくしかないのかなと悲観的な気持ちもあります。

 

私は別に革命を志向しているわけではなく、どちらかといえば保守的な人間だと思っていますが、貧困問題を政治家に本気で取り組ませようと思うのでしたら、やはり集団になるしかないと思います。個人ではやはり限界があります。業界団体のように集団で圧力をかけないと政治家は動きません。

 

 

子供に貧困の自己責任などあるわけがない

 

さて、自己責任の話ですが、そもそも誰もこの世に生まれることを望んだわけではありませんし、ましてや親を選んだわけでもありません。

 

気がついたらこの世にいたわけです。そして、さらに気がついたら家が貧困だったというだけです。

 

子供には何の責任もありません。にもかかわらず、まるでそれが罪であり罰であるかのように十分な教育も受けられず、満足する職にも就けません。

 

結婚したくても将来の生活が不安ですし、第一、今日を生きるのに精一杯なのです。

 

なのに、この国の政治家は少子高齢化は大変だと大騒ぎしています。

 

しかし、これも結局のところ本気で大騒ぎしているわけではありません。なぜなら少子高齢化対策も自分の票にはならないからです。

 

くり返しになりますが、貧困問題の解決は個人レベルではなく集団となって主張しなければ恐らく解決しません。個人主義という言葉がありますが、これは自分自身は集団に属する一員だということを前提に、国や社会に対して権利や自由を尊重するように主張するとともに他者の権利や自由をも尊重するもので、他人のことには干渉しない、あるいは無関心ということではありません。今のこの国は他者に対してあまりにも無関心な気がします。

 

 

貧困と自己責任 ~誤った先入観

 

自己責任というのは広辞苑にもありますように、自分の判断がもたらした結果に対して発生するものです。

 

危険な地域だと言われているのにわざわざ出かけていって発生したトラブルについては、自身が判断されたわけですから仕方がないと思うのですが、貧困問題に関して画一的に自己責任を叫ぶことには疑問を感じています。

 

現在貧困状態にある人の全員が、貯蓄をせずに娯楽に散財してきたのならまだしも、貧困は親から子に連鎖する可能性が高いものです。

 

親の代で貧困になってしまって、その結果高等教育を受けられずに、一生懸命働いても十分な給料を得ることができない人もたくさんいます。

 

貧困なのは経済観念がないからだとか生活保護者はみんな毎日遊んで暮らしているとか、何ら科学的根拠のない枠にはめ込むのは、私は賛成できませんし、これはある意味でコミュニティを破壊し、新たな差別の温床となる危険な兆候だと思っています。

 

 

明治にはタダで生活保障をしてくれる学校が存在した

 

今の日本は依然として経済大国であり、世界的に見ても豊かな国なのは間違いありません。しかしながら、経済格差が拡大して貧困に苦しむ人も多いのも事実です。しかも、努力すれば何とかなる状況を通り越して、努力する機会すら失われている子どもたちがたくさんいます。

 

明治時代に師範学校というものがありました。明治5年に東京の湯島に最初の師範学校が設置され、その後名古屋・大阪・広島・長崎・新潟・仙台に設置されました。

 

師範学校は、卒業後に教員になることを前提にしていましたので、授業料は無料でしたし、生活も保障されていました。そのために、成績優秀であっても満足に教育を受けられない恐れのあった貧しい家の子供への救済策の役割も果たしていました。

 

彼らは師範学校を卒業して高等師範学校を卒業し、さらに大学というコースを目指すことができました。これは、学費が無料で中等学校、高等学校、帝国大学というコースに匹敵するような教育が受けることを意味します。したがって、経済的な理由で進学を断念せざるをえない優秀な人材を多く吸収しました。

 

実際にこのコースを進んで歴史に名を残した人もいます。

 

有名なのは、日露戦争で活躍して日本騎兵の父といわれた秋山好古(あきやまよしふる)です。

 

この方は司馬遼太郎氏の著作である「坂の上の雲」の主人公の一人ですのでご存知の方も多いと思います。

 

彼は、安政6年(1859年)1月7日に伊予松山の下級武士の家に三男として生まれました。

 

1868年に江戸幕府が倒れましたが、伊予松山藩主の久松家は佐幕側であり、維新後は土佐藩に伊予を制圧された上に、久松家は15万両もの賠償金を背負わされてしまいます。当然、藩財政は火の車となり、藩士達の家の生計も苦しくなりました。

 

さらにこの年に秋山家の五男として生まれたのが、のちに海軍で日本海大戦の作戦計画を練った真之です。

 

秋山家は家計が苦しいため、真之を寺に預けようとしたのですが、そのとき10歳の好古が、「お父さん、赤ん坊をお寺にやっちゃ、いやぞな。追っ付け、ウチが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるがな。」と言って引き止めた話は有名です。

 

好古は家計を支えるために、銭湯の水汲み、釜焚き、番台をやっていましたが、16歳の時にすごい話を耳にします。

 

「大阪に無料で学べる学校があるらしい。」

 

これは明治6年に設立された大阪師範学校のことです。
好古は明治8年、17歳の時に大阪に渡り、試験に合格しました。当時の師範学校には修業年限が設定されていなかったので、一定以上の成績を修めればたった1年で卒業できました。

 

好古にとって金を稼ぐということは家計を支えることですので、一生懸命勉強して1年で卒業し、大阪府北河内58番小学校、そして名古屋師範学校附属小学校に勤務しました。

 

このころの好古の月収は30円でした。当時は7円程度で一人暮らしが十分成り立った時代ですので、好古は18歳で家計を十分支えることができるだけの給料をもらっていたことになります。

 

さて、好古は不幸なことに、佐幕側に回った松山藩出身です。薩摩・長州出身者は続々と官僚・軍人の道を歩んで栄達していきましたが、佐幕側でありかつ小藩出身の貧乏士族には、官費で学べる師範学校を卒業するぐらいが出世の関の山であると思われました。

 

しかし、ここで好古に再度転機が訪れます。

 

明治政府は明治7年、東京に「陸軍士官学校」を設立しました。この学校も学費がただであるだけでなく、給料も貰うことができました。

 

そして何より、能力次第で薩長出身者なみに出世できる可能性がありました。

 

かくして好古は東京行きを決心し、明治10年(1877年)5月に陸軍士官学校(旧3期)に入学し明治12年に卒業しました。

 

その後、明治16年に陸軍大学校の1期として入学し18年に卒業してからは、日本騎兵の育成に力を注ぎました。

 

そして明治37年(1904年)日露戦争において、騎兵第1旅団長・陸軍少将として出征し、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦い、日本の勝利に貢献しました。

 

好古は帰国後、大正5年に陸軍大将に任ぜられ、大正9年には教育総監に就任します。教育総監は陸軍中将以上をもって補職される職で、陸軍大臣・参謀総長と総称して陸軍三長官と呼ばれました。

 

つまり好古は日本陸軍のトップの一角にまで上り詰めました。

 

好古は大正12年に予備役に編入されたあと、故郷の松山で校長職を勤め、昭和5年に亡くなります。

 

 

21世紀の日本に秋山好古が生まれたら・・・

 

秋山好古の最終階級及び位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級です。当時の大将というのは、親任官であり、格付けとしては大臣や枢密院議長と同じです。

 

また、明治から昭和20年に帝国陸軍が崩壊するまでの間に、陸軍大将にまで上り詰めたのはたったの134名です。

 

佐幕藩の貧乏士族に生まれた彼がここまで出世できたのは、彼の能力や努力も当然あるのですが、いちばんは教育機会があったことです。

 

貧困士族の子を救済する制度がなければ、好古は貧乏のまま一生を送ったでしょう。

 

もしも、今の時代に好古が生まれたとしたら、彼は教員にもなれないでしょう。なぜなら彼の肩には秋山家の存亡が重くのしかかっていたからです。

 

アルバイトして学費を稼ぐとか奨学金で何とかというレベルではありません。

 

現代の日本では彼は確実に潰れて終わりです。

 

つまり、たいへん残念なことに教育機会という面でいえば、現代は明治に遠く及ばないということです。

 

これは、政治家のレベルの違いに直結します。明治初期の政治家は教育を国の根幹と考えただけではなく、それを着実に効果ある形で実行しました。

 

ここのところが、騒ぐだけでまともな政策すら実行できない今の政治家や官僚との決定的な違いです。

 

明治維新を主導した元勲といわれる人たちは、権力争いや利権の奪い合いもしましたがそれだけで終わらなかったことが、明治時代の幸運の一つです。

 

彼らは薩長土肥の出身だから早い時期から国家の中枢を占めることができたのは事実ですが、彼らには共通する思いというものがありました。

 

それは国を憂うという気持ちです。

 

国を発展させるには優秀な人材を官僚や軍人として育成しないと国自体が無くなってしまうという危機感がありました。優秀な人材は薩長土肥限定ではなく、優秀ならば誰でも良かったのです。

 

ですから、秋山好古は勉学の機会を与えられて、自己の能力を発揮することによって陸軍大将という極官になることができ、弟の真之も兄に面倒を見てもらいながら海軍軍人としての道を歩んで日露戦争で名を残す名参謀になることができたのです。

 

したがいまして、確実に言えることは現代日本の貧困政策は明治時代の足元にも及ばな稚拙極まりない代物だということです。

 

政治家や官僚は、こう言われるとあれもしましたこれもしましたと言い訳だけは達者だと思いますが、自分たちの政策に自信があるのならば自問自答すればいいのです。

 

「21世紀の貧困家庭に秋山好古が生まれたとしたら、大臣や事務次官、陸上自衛隊の幕僚長になれるだろうか?」

 

もし、できるというのなら、好古のように努力すれば20歳になる頃には家族を養えるほどの給料を貰える方法を是非とも子どもたちに教えてあげて下さい。

 

仮にできないのならば、自身の政治家として能力は100年以上前の政治家や官僚の足元にも及ばないということです。

 

吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎といった人たちは、自国の子どもに待ち受ける暗い未来を見て見ぬふりをしている郷里の後輩を見て草葉の陰で哭いていることでしょう。