【水波霊魂学】瞑想の霊的危険(5)~道を踏み外さないために

瞑想の霊的危険

 

<前回の記事>

 

瞑想中の意識の向け方

 

瞑想を行なう際に、危険を避けるために大切なことの一つに『意識の向け方』があります。

 

例えば『無』になるとか、『自分のありのままをすべて赦す』ということを、意識の中で集中させると危ない状況に陥ることがあります。

 

人には意識があってそれは常に動いていますので、そもそも『無』の状態になることは非常に困難です。

 

私たちの意識も『有』、物質も『有』、音も『有』であって、それを無いものとして無理やり抑えつけると困ったことが起こることがあります。

 

それは、肉体の意識を強く抑えつけたことによって、本来は陰にいるはずの幽体の意識が前面に出てきてしまうことです。

 

 

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幽体の意識が飛び出してくる危険性

 

幽体は肉体を重なっている霊的な身体ですが、人間としての主導権は常に肉体の意識が持っていますので、幽体は肉体が死ぬまでずっとくっついているだけしかない、いわば陰の存在です。

 

例えば、肉体の意思が食事をします。幽体はくっついて見ているしかありません。肉体の意思が学校や会社に行きます。幽体はくっついて行くしかありません。このように幽体は、肉体が死ぬまでずっとくっついて暮らすことだけしかできません。

 

幽体の意識は、肉体が行なった判断に対して、「こうすればいいのに、ああすればいいのに」と思うことはありますが、それを主張できる機会はそう簡単に訪れませんので、どんなに不満があってもただ我慢するしかありません。

 

ところがある日、肉体が起きているのに目を閉じてじっとしています。瞑想とやらを始めたようで、肉体は『無』を求めるとか言って自分の意識を必死で抑えつけようとしています。

 

ここで幽体は思いました。「チャンスだ!自分を主張できるのは今しかない!」

 

そして、いつもは陰に隠れている幽体の意識がぐっと表面に浮かんできます。

 

肉体の意識と幽体の意識はまったく別個の意識ですので、前に出られるときは前に出たいというのは当然の欲求であり、当たり前と言えば当たり前のことなのですが、それによって問題が起こります。

 

幽体の意識が表面意識を占領したようになってしまったことで、肉体の意識が関知しないところでさまざまな感情を吐露したり、行動を起こしてしまうことがあります。

 

幽体は嬉しいのか悲しいのか分かりませんが、その感情が表面に出ることで突然、肉体の目から涙が出て止まらなくなったり、幽体が何をしたいのかは分かりませんが、突然、立ち上がってその場を離れようとしてドアではなく窓へ駆け寄って行くかもしれません。

 

また、幽体の目は肉体の目が見ることができないものを見ていますので、何かしら見えたり聞こえたりすることがあるかもしれません。肉体の意識は沈静化していても意識を失っているわけではありませんので、何が起きたかの記憶はあり、それを自分に都合の良いように解釈してしまいますと、「私は神の声を聞いた」とか「私の前にブッダが現れた」とか「私は悟った」とか言って、道を外していきます。

 

 

瞑想をする前にやらなければならないこと

 

このように、霊魂も幽体を知らないで行なう瞑想は危険であり、瞑想を行なう前にやらないといけないことは、まずは幽体の強化と教育なのです。

 

幽体の意識は肉体の意識のさらに奥にあります。したがいまして、人間の心とは肉体の意識と幽体の意識を合わせたものです(人間の心にはもう一つ、別の要素がありますがここでは割愛します)。

 

心を抑えつけるということは、肉体の意識だけではなく幽体の意識をも抑えつけていることになりますし、逆にすべてを受け入れるとか赦すというのは、肉体の意識だけではなく幽体の意識も含まれています。

 

幽体の意識は抑え続けるとやがて爆発するのですが、かといって全部赦すと増長します。

 

そして、親のしつけや学校教育で理性というものを知っている肉体の意識と違って、何の教育もされていない幽体の意識が肉体の意識を押しのけて表面に出てくることがあれば、最悪の場合、人生を棒に振るだけではなく、霊的にも大きな不幸を背負うリスクがあるということを知っていただきたいのです。

 

瞑想以外にも幽体の意識が表面に出てくる場面はいろいろありますが、起きているのに目を閉じて何十分もじっとしているのはかなり危ない状態です。

 

瞑想は、正しい霊的な知識を持ってきちんとした指導者の下で行なえば、非常に有益な行法なのは間違いありませんが、何事も利益と危険を知ったうえで、行なう必要があります。