【水波霊魂学】瞑想の霊的危険(3)~書籍紹介2
<前回の記事>
『瞑想の霊的危険ー瞑想の副作用、霊障を防ぐにはー』の「はじめに」
今回は、『瞑想の霊的危険ー瞑想の副作用、霊障を防ぐにはー』の「はじめに」の部分を引用しています。
「なか見!検索」ができるようになれば良いなと思うのですが、今はスマホでは見ることができませんので、前回に紹介しました目次の内容と併せまして、ご参考にしていただければと思います。
『瞑想の霊的危険ー瞑想の副作用、霊障を防ぐにはー』 はじめに
本書は、霊魂学の視点から見た瞑想に関する本である。
一般に知られている瞑想は、心を楽にして、心身を健全にする為に行なう、というような技法であったり、神との合一を目指すというような、宗教的目的の為に行なうものであったりする。
いずれにしても、瞑想は大変に立派で素晴らしい体系と言える。
しかしながら、それらには、残念な事に、霊的な視点が入っていない。それが瞑想法の一番の欠点なのである。
学者からは、心理面での弊害が指摘されている。人によっては、ずいぶんと深刻な副作用もあるらしい。しかし、霊的な面の弊害は語られていない。それが問題なのである。
日本の心霊主義者の一部には、瞑想や精神統一、座禅といったものを行なうと、悪い霊魂に憑依される恐れがある、と指摘している人がいた。
その為、瞑想やそれに類似した技法を行なう際には、指導者に付くなり、指導者がいる場所で行なうように、という主張があった。
とはいっても、そうした主張は大きくならず、現代では大勢の人達が、霊的な危険を頭に入れずに、瞑想や類似の技法を行なっていると思われる。
霊魂に憑かれる、というと、何か特殊な心理状態になって、異常な事を話したり、叫んだり、意識が錯乱したりする、というようなイメージがあるらしく、あまりピンとこない人が多いようである。その為に、自分にはそんな事は起きていない、と簡単に考えてしまう人もいるのであろう。
しかし、現実は違っている。霊魂に憑かれて、錯乱するというような人はむしろ少ない。そうではなく、瞑想者の気が付かないところで、霊的障害が起きているのである。
知らないうちに、霊的な部分が不調になり、やがて、心理や肉体にまで悪影響が出たり、ついには、いわゆる不幸になってしまう事もある。霊的な部分の不調は、本人には分からないからである。
霊的な原因で、交通事故が起きる事もあり得るのである。
私は神伝の法と呼ばれる、霊的な修行法を指導している身であるが、霊的な瞑想も指導している。そこで、瞑想に関する危険を、霊的な面から指摘し、警鐘を鳴らしたいと思い、本書を記す事にしたのである。
もしかすると、心が楽になっても、あるいは悟りを得たとしても、霊的な障害になっているかもしれない。
それでは、時間を割いて瞑想した意味がない。
本書では、瞑想の何が危険なのか、どのようになるのか、そうした事を示したいと思う。一人で瞑想する事は霊的に危険である、と主張する書である。
ただし、読者は、危険の指摘だけではなく、対策も知りたいと思われるに違いない。本書はそうした対策についても触れている。
現代では、世界中に瞑想者がいて、様々な瞑想法が実践されている。
とは言っても、瞑想法自体は、他の霊的な修行法と比べると、おおむね同じような行法だと言える。一部を除いて、基本的には、座って目を閉じている。その為、意識の向け方や呼吸の仕方等に違いがあっても、どの行法も霊的な注意点はおおむね共通しているのである。
霊的な面を知れば、各種の瞑想法に対する理解が深まる、とも言える。
読者の皆さんが、瞑想の霊的な面への理解を深められ、より良い瞑想に至る事を願ってやまない。
本書は霊魂の実在を前提にして記された本である。
一人で行なう瞑想の危険性
瞑想と言いましても、座って目を閉じて行なうもの、立って行なうもの、歩きながら行なうもの、食べながら行なうもの、ヨーガを用いるものなど、さまざまな方法がありますが、本書を読めば『瞑想』を行なう際に気を付けなければならないことは理解できるように書かれています。
特に、一人で瞑想を行なうことがいかに危険なことであるかを知っていただきたいのです。一人で瞑想をしている時に何かしらのアクシデントが起こってしまえば、誰も助けてくれる人はいません。涙が溢れてしかたがないという程度ならまだしも、どうしても部屋から飛び出したい衝動が湧き上がってきて、気が付いたら体が勝手に動いてドアではなくて窓から飛び降りていた、などということが起こってしまえばケガでは済まないかもしれません。
大怪我をした後で、「知らなかった」と後悔しても、後の祭りです。
霊魂のことが気になる気にならないはその人の感性です。霊魂が実在するのはしないのかは、科学はそのいずれも証明できていませんので現時点では「わからない」が正しいのですが、それを「存在するわけがない」決めつけているのは単に個人の価値観にすぎません。
個人の価値観がどのようであっても、あるかないか2つに1つです。そのどちらに賭けるのかは個人の自由です。
(続く)
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