『 腹で考える 』と起こる霊的に困ったこと

腹で考える

 

 

腹で考える

 
私たちは肉体の脳を使って思考していることは当たり前のことですが、昔から腹で考えることが大切だということをおっしゃる方がいます。

 
私は詳しくは知りませんが、重大な決断を覚悟を決めて行なうことを『腹をくくる』と言うように、腹という部分は人間の思考に何かしら関係しているのかもしれません。

 
だからといって、『腹で考える』ということを真に受けて、腹の部分に意識を集中して何かを考えたりしますと、霊的に困ったことが起こります。

 

 

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間気という気は人間の意思に左右されやすい

 
他の記事にも触れましたように、人間を含めた肉体を持つ生命体には幽体という霊的身体が重なっています。そして、間気という気が肉体と幽体を接着剤のようにくっつけています。

 
この間気という気が完全に消失しますと肉体と幽体が分離してしまいます。そして分離した幽体が肉体に戻ることができなくなった状態が『霊的な死』です。人の生死に関係しますので間気はとても重要なのですが、この気にはある特徴があります。

 
それは、人の意識によってある程度の操作ができるということです。

 
例えば、何らかの原因で間気が身体外部に漏れている人が、「間気よ、外に出るな」と念じれば軽症であれば外に出なくなります。したがいまして、ごく軽度の間気漏れの人であれば自力で治せるかもしれません。

 
このように人の意識によって操作ができるということが良い方向に行けばいいのですが、悪い方向に行きますと霊的に困ったことが起こるわけです。

 

 

体の一部に意識を集中させると間気が移動する

 
例えば、『腹で考える』ということを実践しようとして意識を腹部に集中させますと、間気は腹部に集まってきます。間気の量は決まっていますのでどこかに多量に集中すれば、他の部分が希薄になります。例えば、腹部に間気が集まり過ぎたせいで、手足の先の間気が希薄になりますと、手足は大きな動きをする部位ですので、肉体と幽体が分離しやすくなります。

 
普通に歩いていても肉体と幽体の足の部分が分離していますと、幽体の活力が肉体に伝わらなくなり、この悪影響が肉体に出てしまいますと、そこの部位が病気になったり、足の部分であれば転びやすくなったりします。

 
また、ストレスをはじめとするさまざまな原因でその部位の間気がたくさん消費されることもあります。例えば、ストレス負荷が高く心理的負担が重い人であれば、反すう的思考を繰り返していることが多く、その場合は頭の部分に間気が集まりやすいかもしれませんし、間気もたくさん消費するかもしれません。また、ストレスが原因で肉体的症状が出ている部位についても同じことが起こるかもしれません。

 
その時に、間気を生産している幽体が健全であれば間気を補充することができますが、幽体が不調であれば間気は消費される一方になりますので、いずれ肉体的な病気な怪我を招くことになります。

 

 

体の特定部位に意識を過度に集中させてはいけない

 
腹で考えるということを、ネガティブな反すう的思考や感情的思考から自分を切り離すという意味で解釈するのでしたら良いのかもしれませんが、考えるために腹に意識を集中させることはあまり意味がないと思います。

 
なぜなら、「腹で考えよう」と考えているのも肉体の脳だからです。

 
マインドフルネスのように、同じことをグルグル考えたり、あれをしなければこれをしなければということに支配されたりすることからいったん離れて、今ここでの自分に意識を向けることと同じだと思っていたほうが良いかもしれません。

 
思考でも肉体的なトレーニングでもそうですが、体の特定部位に意識を集中させることは、霊的な観点から見れば危険なことだと言わざるを得ません。

 
それでも、例えば丹田に意識を集中して何かをした後に、自分で間気を循環させることができるのであれば問題はないのかもしれませんが、そんなことができる人はまずいませんので、間気は腹部にどんどん偏ってしまいます。

 
それは何十年かけて肉体に悪影響を及ぼしていきます。仮に命を落とすことがあっても霊的なことに無関心であったり拒絶する方にとって、死因は病死であり事故死にすぎません。

 
足を踏み外して大怪我をした時、表面的にはあくまで事故にすぎませんが、本当は霊的な原因があったのかもしれません。もちろん転ぶ人がすべて霊的な原因で転ぶわけではありませんので、全員がそうだというわけではありません。

 
しかし、100人転んだ人の中で何人かは間気を増やして肉体と幽体を密着させておけば防げたかもしれません。

 
現代の人は、幽体が弱体化している人が大多数ですので、間気の生産量も少ないと思われます。したがいまして、少ない間気を有効に使うという意味で、間気を偏らせないようにしたいものです。