『 自由 』とは ~この世での自由、あの世での自由
この世での『 自由 』
アメリカのニューヨーク港内にあるリバティ島にある自由の女神像(Statue of Liberty)の正式名称は、Liberty Enlightening the Worldというそうです。自由でこの世界を照らす女神様ということなのでしょう。
自由の女神像はアメリカ独立100周年を記念してフランスから贈呈されました。フランスは自由・平等・友愛を標語にしている国ですので、女神様のいう自由とは弾圧からの解放とすべての人は平等であるという意味合いだといえます。
西洋の歴史でみますと、自由とは特権階級が持っているもので一般大衆が持ち得ないものとされていたのですが、フランス革命で王政が崩壊したことによって、市民権や平等主義が他の地域にも広がっていきました。
私たちが一般に自由という言葉を使用する時は、西洋からの思想的意味合いで使用することが多いように思います。
しかし、自由という言葉にはもう一つの側面があります。それは古代中国から日本に伝わってきた専恣横暴(せんしおうぼう)というものです。これは勝手気まま、己の欲望のままに行動するという意味で、明治維新まではこちらの意味合いで使用することが多かったそうです。しかし、維新後にFreedomやLibertyに自由という訳語をあてたこともあって、現在ではFreedomやLibertyの意味でも使用されるようになりました。
「私は自由でありたい」という時、それはあらゆる弾圧や束縛からの解放を意味していると思います。その上で法を犯さない範囲で勝手気ままでいたいということなのではないでしょうか。
法も何もかも無視して勝手気ままな行動をする人は、現代では社会から排除されてしまいますので事実上不可能ですし、法を犯さない範囲ということは制限があるということですので、いずれにしましてもこの世にいる限り人間は真の意味で自由であることはできません。
あの世での『 自由 』
あの世に自由という概念は最初はありませんでした。なぜなら、弾圧や束縛などなかったからです。
私たちが死後の世界と呼んでいる場所(幽質の世界)は、食べる必要がない、寝る必要がない、食べなくていいので働く必要がない、欲しいものは心の中で強く念じれば実現しますので、物を買う必要がありません。家も好きな場所に建てられますし、もしも隣人と気が合わなければどちらかがその場所を去ればいいだけです。つまり土地や家や対人関係に縛られることもありません。
そもそも何をしても勝手な世界ですので、自由を得る努力などする必要がありませんでした。
しかし、人間の霊魂が地上の人類に侵入し、死と再生を繰り返すようになりますと、もともと階層などなかった幽質の世界に上の世界とか下の世界と呼ばざるを得ないような階層が出来てしまいました。
これは、この世で生きている間に不自由を経験し、弾圧や束縛を経験し、さまざまな苦悩や苦痛を味わった個性があの世に帰ってくることで、元にいた場所に戻れなくなったことから端を発しています。
幽質の世界では、幽体という霊的身体を使用しますが、幽体の成長具合が同じ者同士しか同じ場所で暮らせないのです。これは、川魚が海で暮らせないとか、人間が宇宙服なしで宇宙空間に出られないのと同じようなもので、暮らしたくても暮らせないのです。
人間の霊魂は地上の世界に生まれては死ぬということを何回も繰り返しています。現代日本はあからさまな階級はありませんが、数百年前の世界は階級があって当たり前で特権階級がそうでない者を迫害したり弾圧したりすることは日常茶飯事でした。
人は誰でも何回もこの世に生まれてきているということは、そのうち何回かは弾圧された側の人生を送っていても何ら不思議ではないのです。その時に味わった苦悩や苦痛は他界後にそのままあの世に持ち込まれますので、死んだ後も権力闘争や紛争を続けている霊魂がたくさんいます。
他界後にいわゆる下の世界に行ってしまいますと、ある意味この世で繰り広げられていた弾圧や束縛がそのまま続くことになってしまいます。ということは、本来自由な場所であったはずの幽質の世界が住む場所によっては不自由極まりないということになっています。
上の世界での自由意志
それでも上の世界といわれる場所では、お互いを束縛することもなく自由な場所であることは変わりありません。
一概に上の世界とか下の世界とかいいましても、明らかな階層が存在するわけでもありませんし、人が住んでいる所に「ここは上の世界です」などという看板も立っていません。また、上の世界とも下の世界とも言えないような微妙な場所も存在します。
ある場所に霊魂が集まるのは、同じような幽体の持ち主ということだけですので、誰かが住む場所を決めているわけでもありません。幽体の状態に変化があれば、それにふさわしい場所に本人の意志に関係なく勝手に移動してしまいますので、このことをこの世の感覚では想像することは難しいと思います。
人間を担当する守護霊や指導霊といわれる霊魂は、地上の人間から見れば幽質の世界でもかなり上の階層に住む霊魂です。彼らの多くも過去に地上の世界での人生を経験し、他界後に霊的に成長する努力を続けてきた結果、上の世界でもかなりの上層に到達できました。そして、それは同時に地上的な価値観を捨て去ってきたということでもあります。
このクラスの霊魂がいう自由とは、専恣横暴ではありませんが、真の意味で自分の欲望の思うように行動するという意味に近いです。
「人間はどのように生きるのも自由である」という時、それはどのような職業に就こうとも、誰と結婚しようとも自由であるばかりではなく、幸せになることも不幸になることも、人を殺すのも殺されるのも自由だということです。
これが人間の自由意志の本質です。とても冷たく感じる方もおられるかもしれませんが、自由というものを突き詰めればこうなってしまうわけです。
地上の世界の秩序は地上に生きる人間が決めればいいので、人を殺せば罪に問うのは神ではなく人間です。人を殺して英雄と呼ぶのも犯罪者と呼ぶのも神ではなく人間です。高級な霊魂はそんなところに干渉することはありません。
守護霊も指導霊も、担当する人間が将来どんな人生を歩むことになるのかをある程度予見しています。その上で良い部分を伸ばし困る部分を修正できるような機会が訪れるようにお膳立てしてくれることがあります。
もちろんこれは守護霊と交流できている人限定ですので、大抵の人はいわば糸の切れた凧のようにこの世の人生を送っています。
今回、この世に生まれてきてしまったために、果たすべき目的ができたのですが、これはほとんどの場合は、この世で乗り越えてこそ果たされる課題です。それは仮に足を踏み外せばこの世に生まれてきた意味がなくなるどころか、さらに苦悩を積み上げる結果となり生まれて来なければ良かった状態になりかねないほどの難題でもあります。
守護霊と繋がっていないばかりに、人生の課題にぶつかった時に何の支援も得られることなく、欲望の赴くままに行動した結果、他人から念を受けて幽体を傷つけてしまって死後を暗くしてしまっては何のために生まれて来たのか分かりません。
上の世界の霊魂が言う「自由意志」というのは、私たちが日常使用する「自由」よりもよりシビアな意味を持ちます。
この世での自由を求めることも大切ですが、人間の自由意志とは何か、何を求めるのが重要なのかということもそれ以上に大切なのです。