こんな 瞑想指導者 は避けましょう
瞑想は危険?
マインドフルネスのために瞑想を試してみたいと思われる方の中には、「危険や副作用はないのか」と心配されている方もおられると思います。
私は、瞑想という作法は立派なものであると認めていますが、やり方を間違えると大変危険であるとこのブログに何回か書いてきました。
マインドフルネスのように、あくまでもストレスの低減や慢性疼痛のコントロールといった目的だと割り切って瞑想するのであれば失敗する確率はわずかながらも低下するかもしれません。
しかし、神との合一とか悟りを開きたいと思って、古来から伝わる瞑想を行ないますと、現代の環境ではかなりの高確率で失敗します。
当ブログでは何度も書いていますが、個人が独学で行なう瞑想は百害あって一利なしです。
ですから、真剣に瞑想を行ないたいと思われる方は、まずはしっかりした指導者を探すことから始めないといけません。
そこで、瞑想を安全に始めたい方が指導者を見立てるためのチェック項目をまとめてみました。
こんな 瞑想指導者 は避けよう
1.本を読んだだけで指導者を名乗る人
本を読み漁って理論や知識だけ山ほど身につけても、自身で瞑想を実践していない人は役に立たないことが多いです。
指導者も誰かに師事することによって、文章では伝えきれないことを先生から教えてもらったり、体得することができるわけです。そういう経験のない方が指導者をされているところに通うことは避けたほうがいいです。
2.悟りを開いた人・神から選ばれた人
悟りを開いた人や神から選ばれてしまった人は、もう私たちのような凡人は恐れ多くて近寄ってはいけないすごい方です。「触らぬ神に祟りなし」というたとえもあります。避けた方がよさそうです。
3.感情のコントロールが出来ない人
喜怒哀楽を表に出すことが悪いわけではありませんが、習いに来ている人に対して暴言を吐いたり、暴力行為に及ぶ場合は、感情のコントロールに難ありと言わざるを得ません。
瞑想は基本的に心を落ち着けて行なうものですので、そんな場所で怒鳴っていたり大笑いするのは困りものです。
最近も、東京にある、とある寺の住職が体験修行に来ていた人に暴言や暴行を行なっていたことが大問題になっています。
瞑想をするはずが、心理的負担が増してしまったりケガをしたりすれば本末転倒です。
4.古来の瞑想が現代にも通用すると思っている人
まずは、2500年前のインドと現代の日本では環境が違いすぎるということを知るべきです。
その違いをまったく考慮することなく、昔から伝わっている作法をそのまま行なっても、昔と同じ効果が出るわけがないのです。
まず、古代の人たちは現代人のようなストレスを感じていません。
毎朝、満員電車に揺られて会社に通うこともありませんし、上司に怒鳴られることもありません。
受験競争も出世競争も受注競争もなく、時間がゆったり流れて、半日も瞑想することができる環境とは、ほど遠いのが現代です。
そもそも、古代の瞑想とはその時代に生きた人が行なうようにできています。
現代人には現代人のための瞑想が必要なのですが、本を読んだだけの人や先生に習っただけの人は、体系そのものを変えられるだけの技量がありません。
この項目は、実際にクリアできる方はほとんど皆無ですので、仕方ない部分もなきにしもあらずですが、それでも現代の生活環境からあまりにかけ離れているようなことを強いてくる指導者には注意が必要です。
5.「宗教とは関係ない」とドヤ顔で言う人
私には素朴な疑問がありまして、「宗教とは関係ありません」とドヤ顔で言っている瞑想指導者の方は、そもそも誰から瞑想を教わったのでしょうか?
日本に限らず、宗教色が強い技法を広めるために「宗教とは関係ありません」と宣伝することはよくあることです。
そのように宣言することによって、指導者自身も生徒さんも何かしらの安心感に浸ることができるのかもしれません。
しかし、外国と日本との違いは、外国の場合は、『瞑想というものは確かに仏教や禅の影響を受けていますが、その本質は特定の宗教に依らない人類にとって普遍的なものなので、他教徒であっても問題なありません』と言う意味で使われているのに対して、日本の場合はただ単に宗教自体に対する嫌悪であるということです。
確かに、瞑想やヨーガを入り口にして大きくなった宗教教団が地下鉄に毒を撒いたせいで、日本人にとって宗教というものが、何やら怪しいもの、いかがわしいものになってしまった面はあります。
とはいえ、瞑想の指導者が例えば仏教の瞑想を習っていたのならば、宗教的影響をモロに受けていることは間違いないわけです。
それにもかかわらず、宗教とは無関係というのであれば、指導者ご自身がまったく新しい瞑想の体系をイチから開発するしかありません。
やっていることは、サマタ瞑想やヴィパッサナー瞑想そのまんまなのに、宗教と関係ないとドヤ顔されましても、私から見ればそれは滑稽にしか見えません。
6.瞑想する場所(空間)に無頓着な人
瞑想をする場所は非常に大切ですが、ここで言う「場所」とは、いわゆる「空間」のことです。
瞑想をする場所自体は、物理的な危険がなければどこでも構いません。
自宅でも、寺でも、どこかの木の下でも、公民館の会議室でも、どこでも構いません。
しかし、問題は「空間」です。
いずれの場所で行なうにしても、「空間」を考慮しない瞑想は危険なのです。
なぜ危険なのかは、当ブログでも何回も書いてきていますので、繰り返しになりますが、「空間」とは、「霊的な空間」のことですので、少なくとも瞑想する場所がきちんと祓われていないと、霊的に困ったことがたくさん起こります。
本当はこれが一番重要なのですが、如何せん、現代の人は目に見えないものは頭ごなしに全否定する方が多いですので、どうしようもありません。
仮に生徒さんが全員無神論者であったとしても、せめて指導者が瞑想する「空間」についての知識があって、生徒さんが来る前に「場の調整」くらい出来るのであれば、少しはましなのかもしれませんが、実際にそんなことをやっている人は少ないと思いますので、結局は、周囲に腹を空かせたライオンやハイエナがうろついているけれども、目には見えないので知らないと言って瞑想しているようなものです。
霊的な被害は、そのことを知ろうと知るまいと、意識しようと無視しようと関係なく起こります。
被害を防ぐことができるのは、それ相応の対策を施した時のみです。
ここまで書いてみて、正しい瞑想指導者がこの世にどれだけいるのか心配になりましたが、それでも瞑想したいという気持ちがあるのならば仕方ありませんので、できるだけ正しい指導者に巡り合えるように情報収集を行なうしかありません。
ちなみに、水波霊魂学を指導している契山館では、会員以外の方に対する、瞑想を含むあらゆる霊的な指導については、現在のところ行なっておりません。
現代の霊的状況が悪すぎて、会員だけが集まる場所でさえ「霊的な場」を作るのに苦労していますので、今現在は会員以外の方向けに何かを行なうことが非常に困難になっているのが現状のようです。
私個人としては、何とかならないかなという気持ちはありますが、解決策があるわけもなく、残念ながら現状を止むを得ないものとして甘んじて受け入れるしかありません。