山の日 ~消えてしまっては困るもの

山の日

 

 

山の日

 

山の日は2016年(平成28年)から施行された新しい祝日です。

 

8月11日という日付に特別な意味はないようですが、国民の祝日に関する法律(祝日法)第二条を見ますと『山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する。』と定義されています。

 

祝日の意味は別として、恐らくお盆の時期に少しでも長く休めるように配慮されたのかもしれません。

 

さて、山がなぜできるのかといいますと、地球上にある陸地は常に移動していて、移動する方向が異なる陸地が衝突していわば『皺が寄った』ようにデコボコになったからです。これはあくまで科学的なはなしですが、私たちの祖先は山というものに神秘的な何かを感じ、実際に信仰の対象にしてきました。

 

特に日本の象徴ともいえる山である富士山は、『神山』として日本人の心に特別な感慨を与えてきたといえるでしょう。

 

 

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山が持つ霊的な意味

 

じつは山は霊的な意味から見ても重要なのです。

 

なぜなら、霊的に高貴といわれる気は上から下りてきます。ですから山の頂上に高い気を受け取るための『アンテナ』のような目印を設けることができれば、その山の周囲にいる人は常にその『アンテナ』から高い気を受け取ることができるからです。

 

実際、過去には霊的な達人と言われる方が何人も存在し(その多くは歴史に名が残っていませんが)、富士山の頂上に『アンテナ』となるような目印を残しました。

 

そして、富士山が見えるところに住んでいた人々は、わざわざ富士山に登る必要もなく、麓から祈念することによって、富士山に下りた高貴なる気をお裾分けのように戴いて生きていれば、他界後も下の世界に落ちることもなかったわけです。

 

山を穢すもの

 

ところが、昨今の流行りなのかどうかは知りませんが、こうした聖なる山に自ら登ろうとする人々が増えました。これまでも山に登ろうとする人はいましたが、その多くは修験者をはじめとして何かしらの宗教的な目的があったのですが、現在は単なる観光目的の方がほとんどです。

 

さらに、地上の世界の霊的状況の悪化によって、霊的な修行を何一つしていない人が霊的に成長するどころか退化しているような人達が山の頂上に集まれば集まるほど、彼らが発する霊的に低い念や気が頂上に集まることになり、霊的なアンテナの力がどんどん弱まっています。

 

この状況を神社に例えますと、神社にはご神体を祀っている本殿があって、その手前に拝殿があります。拝殿の前には賽銭箱が置いてあって、参拝者は拝殿の前で祈念をします。仮に拝殿を素通りして本殿に上がり込み、ご神体の前で飲み食いして排泄までしている人がいたとしたらどうなるでしょうか。神社からつまみ出されるだけで済むのか知りませんが、神への冒涜なのは間違いありません。

 

『霊的に高い気を下ろすためのアンテナ』は、誰にでも作れるものではありません。霊的に高度な修行を積んだ達人のみがなせる技です。

 

作るのは実に難しいものでも、壊すのは簡単です。大自然が気が遠くなるほどの歳月をかけて作った清流も一瞬で濁流にできてしまうのと同じです。

 

ですから、壊してはいけないものは大切に守っていかなければならないのです。特にそれが人間の五感を超えたものであれば、何も分からないのですから、とにかくその場所には立ち入らないことです。

 

ヨハネによる福音書という古い書物に、イエスが神殿で金儲けをしている者たちを追い払う場面が出てきます。

 

「わたしの父の家を商売の家とするな」という言葉を実際に仰ったのかは分かりませんし、私はキリスト教の教えは知りませんが、これは金儲けの是非を問うたものではなく、聖域に人間がみだりに立ち入ることによって高貴なる場所が穢すなという意味ではないかと思っています。

 

現代の正義は『法』ですので、仮に富士山の頂上でイエスが現れて聖書に書いてある通りのことをすれば警察に逮捕されてしまうでしょう。現代は観光で富士山に登るのも頂上で飲み食いするのも排泄するのも当然ながら合法です。

 

残念ながら富士山の霊的な価値は今や風前の灯火です。