この世に生まれてしまったから『生きる目的』が必要になった

生きる目的

 

生まれたがための悩み

 

人が生まれてきたことがすぐに喜びとは限らないことを知らないと、生まれたがための悩みは決して解決しない。人が霊魂としての道を知らなければ、すべての主義は無価値である。

 
この言葉は水波霊魂学に関する、かなり昔の文書に載っていた言葉です。
とても重要なことが記されているのですが、「生まれたがための悩み」という部分の意味が分からないと何が重要なのか分かりにくいと思いますのでそれを説明します。

人は誰でも肉体に幽体という霊的な身体が重なっています。幽体は物質ではないので目視することもできませんし、物質を測る機械を使ってもその存在を知ることはできません。

 
肉体は父親と母親の生殖行為によって発生したので、両親の肉体的な遺伝を受け継いでいます。一方、幽体は受精卵ができたときに俗にいうあの世(幽質界)から勝手に引き込まれた存在なので、肉体とは別の個性です(実際に引き込まれるのは幽体全体ではなく一部なのですが詳しい説明は割愛します)。

 
さて、肉体が発生したからこの世に引き込まれてしまった幽体は、じつは幽質界の住人であれば自由に生きられました(下の世界の霊魂を除く)。彼らは肉体を持っていませんので寝る必要も食べる必要もありません。幽質界は意識の世界ですので住む家が欲しければ念じれば現れますし、きれいな洋服を着たい思えばそれをイメージすれば服も着れます。

つまり、お金を得るために働く必要がありません。幽体の存在すべてがこの調子ですのでもちろん泥棒もいません。欲しいものは念の力で生み出せるのでわざわざ他人のものを盗る必要がありません。

それがある日突然、自由な世界から不自由な世界に移動してしまいました。きっかけは地上の男女の生殖行為です。私たちは望んで生まれて来たのではなく、生まれてきてしまったわけです。

 

 

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生まれてきてしまったから『 生きる目的 』が必要になった

 
人はこの世に生まれてきてしまったがゆえに「生きる目的」が必要となってしまいました。幽体からすれば今まで自由な世界に生きてきたのに何でこんな不自由な世界に生まれてきてしまったのか?と戸惑うのは当然です。少なくとも幽体にとってはこの世に生まれたことは「喜び」ではありません。

それでもせめて生まれた瞬間は、皆が同じラインからスタートするのであればまだマシなのかもしれませんが、現実はそうではありません。

 
誰ひとり、生まれる時代も場所も両親さえも選んでいません。ある子供は堕胎されて生まれることさえ許されない。ある子供は生まれたとしても両親の遺伝的欠点を受け継いで苦労するかもしれませんし、生まれた環境が裕福な家なのか貧乏な家なのかも生まれてみないとわかりません。

また、この世に引き込まれてしまった幽体も地上の人生を何回も繰り返してきた個性であり、過去の人生で負った深い傷を心のの奥に秘めており、これは今回の人生を不幸にしてしまいかねない起爆剤になり得ます。

 
つまり、人は生まれた時点で物質的にも霊的にも不平等だということです。

この世に真の自由はなく、真の愛もないことを自覚する

 
平等な社会、差別をなくす社会、偏見をなくす社会・・・、なぜそれを目指すのかというと、それらが今も存在するからです。
それらをなくす流れを作っていく努力はたいへん重要なことですが、現実から目をそむけて夢ばかり見ていては道を間違えるもとになります。

大事なことは、人間社会には何らかの不平等、差別、偏見が常に存在する事実をきちんと見つめること、人間はそれらをどうしても生み出してしまう生命体だと自覚することです。それを自覚しないで行動するから自分は愛の人だとか他人を導く存在などと勘違いしてしまうのです。

 
人間はどこまでいっても未熟であり、結局は自分がいちばん大切なのです。それを自覚できるかできないかが大きな分かれ道となります。
受験にしろ就職にしろ合格枠が決まっていますので、自分が合格するということは誰かが不合格になって泣いているということです。もし自分が愛の人で善の人と自認するなら、自分のために他人が泣いているのを放置できるわけがありません。商品が欲しくて行列に並んでとしても、自分が手に入れるということは手に入れられない人がいるということです。自分の後ろに並ぶ人がいれば当然、場所を譲るのが愛の人であり善の人です。

 
ところが、自称「愛の人」や「善の人」は、自分のぶんは最初に確保しておいて他人に対して利他愛を要求する不思議な人であることが多いのが現実です。私たちがそうならないためには「私はどこまでいっても未熟なのだ」と常に自覚し続けるしかありません。
人間は肉体だけではなく幽体という霊的生命体を併せ持つ存在です。この世を大金持ちになって面白おかしく生きたとしても、肉体は欲望を満たせてごきげんでしょうが幽体という霊的個性は何の満足も得られていません。

 
まずは、人間は霊的な個性であることを知ることが第一歩です。そしていわゆる人格者という肉体的側面を目指すのではなく、肉体と幽体を併せて霊的個性としての向上を目指すのが理想だと思っています。

人間は肉体の意識と幽体の意識が別々に活動していますので、価値観も起こった出来事についての解釈も同じわけがありません。ですから人間はある出来事に対していろいろな感情や思いを抱くわけです。肉体の意識はまっすぐ進みたいと思っても幽体の意識は進みたくない、むしろ引き返したいを思っているかもしれません。したがって人は悩んで苦しんでが当たり前なのです。

ただし、苦しみが大きすぎると心が潰れますのでこのあたりの調整はとても重要なのは言うまでもありません。

人は喜びだけや楽しいだけの人生を歩んでも、ましてや自称「愛の人」になっても霊的な進歩はないようです。

 


 
<参考ページ>
高級霊魂からのメッセージ 一の章 三、霊的生命体としての人生の意義 (契山館公式サイトへジャンプします)