競争社会で見えなくなったもの

現代の日本は競争社会です。

 

最近も、「保育園落ちた日本死ね!!!」とブログに書かれた記事が大きな話題になりましたが、今や保育園も『競争』です。

競争に勝って保育園に子どもを預けられた人は仕事を続けられますが、競争に負けた人は仕事を辞めなければならなくなります。

競争に勝たないと人生設計が狂ってしまうのです。

 

待機児童の問題は、かなり以前から発生しているのにもかかわらず未だに解決しないのは、この問題を深刻にとらえていないのか、はたまた今の時点で全員入所できる施設を作ったら、子どもは減り続けているので今度は施設が余ってしまって経費が回収できないと考えているのかは知りませんが、とにかく、一億総活躍を標榜するのならば早急に解決すべきだと思います。

 

 

待機児童の問題はともかく、この社会は『競争』するという前提で成り立っています。

 

誰かが勝てば誰かが負けます。

 

不合格ということは、受験で負けたということですし、会社が倒産するということは他の会社に負けたということです。

 

そんな中で誰もが自分が勝ちたいと願っています。

当たり前のことです。

 

 

たいていの人は、試験に合格した時、自分の実力で合格したと考えます。

これも当然のことです。頑張ってきたのですから。

 

 

しかし、学校であれ企業であれ、定員がありますし、受注競争でも勝つのは1社だけです。

 

仮に私が定員500名の大学に合格したとして、501番目の人は当然不合格になります。

 

私は実力があったから合格して501番目の人は実力がなかったから不合格だったのかと言えばそうではないかもしれません。

 

もしかしたら、当日体調がすぐれなくて結果が出せなかっただけで、本当は私よりも実力が上だったのかもしれません。

 

試験というのは競争なのですから、相手に勝つのは当然のことです。そして競争に勝ち抜いてきた人は、他の人に比べて裕福な暮らしをしています。

 

それも当たり前のことであり、このことに疑問を抱くことはありません。

 

競争社会では、競争に勝った人は笑っていて負けた人は泣いています。

言い換えれば、泣いている人のことを気にしないから、競争社会が成り立っています。

 

 

 

競争社会のおかげで科学技術が発達し人々の暮らしも便利になったのは事実ですが、その反面、自分が本当は利己的な人間であることに気づけなくなってしまいました。

 

競争なのだから、勝者と敗者がいて当たり前ということが常識である社会においては、敗者は泣きながら退場していくのが当然だとみんな思っています。

意識していようがいまいが、自分が勝つということは誰かを負かすということです。

 

つまり、利己的なことが競争原理に前に霞んでしまいます。

 

人間の本性は利己的であることを知るべきです。

 

それを知らないで、自分は愛の人だと勘違いすると道を踏み外してしまう恐れがあります。

 

最近は、愛とか何とか、人間がまるで神の化身であるかのごとき主張している方たちが大勢いらっしゃるようですが、人間がこの世に生きている限り、食べることからして競争なのです。

 

この国は飽食だから気が付かないだけです。

 

仮に大災害が起きて慢性的な食糧不足になった時、自分の食べ物を他人に差し出し続ける人はいません。

 

この国は言論の自由が保障されていますので何を仰ってもかまわないのですが、あまりに耳ざわりの良いことだけを言って現実から目を背けさせるような主張は、もはや害毒でしかありません。