『くそみそ』という言葉で今感じていること

 

くそみそ

 

 

 

くそーみそ【糞味噌】

①価値のあるものとないものを区別できないさま。
「名作も駄作もーに扱う」

②人をさんざんにやりこめるさま。ぼろくそ。
「-にけなす」

 

出典:明鏡国語辞典

 

『くそみそ』という言葉をいくつかの辞書で調べましたが、私は明鏡国語辞典で示されている意味がしっくりきました。

 

『くそみそ』とは、そのまんま、糞と味噌の区別がつけることができず、めちゃくちゃなさまを言います。

 

今回の記事はこの言葉から私が感じている2つの事柄について書いていきたいと思います。

 

宗教と『 くそみそ 』

 

まず一つ目の『くそみそ』は宗教です。

 

宗教の本来の目的は、神を求めることです。神の名は宗教によって違うかもしれませんし、その教えも異なる部分があるかもしれませんが、『神を求める』こと字体にブレがなければそれは頂上に向かう道が違うという程度のことです。

 

しかしながら、現代において多くの人たちが抱く宗教のイメージは、その本来の目的から遠く離れてしまいました。

 

「宗教に縋ることは心が弱い者」とか「宗教は教祖や幹部が信者からお金を吸い上げて私腹を肥やすための装置」とか「テロを起こす組織」といった具合に、長い年月をかけて本来の目的である『神を求める』ということがすっぽりと抜け落ちていきました。

 

それはまるで味噌しかなかったところに糞が混じり、それだけではなくなんと味噌の味がする糞が増殖して、一見すると糞の山みたいになっているかのようです。

 

こんな状態になったのは、味噌味のする糞を混ぜた人間が悪いのですが、そういうことは棚に上げられて、神を求めることが味噌味のする糞を食わされるかのような印象を与えてしまっているのが、現代に生きる人たちにとっての最大の悲劇だと思います。

 

それに追い打ちをかけるように、科学の発展によって自然災害に対する耐性が向上したことが、自然というものにたいする抵抗力を獲得したと勘違いした人たちを増やしてしまいました。

 

ひと昔前であれば、連日35度を超える環境であれば人がバタバタ死んでいたかもしれませんし、台風が上陸すれば家は飛ばされ、川は少しの増水にも耐えられず氾濫し、多大の被害を被っていたでしょう。

 

昔の人はこれらの災害に見舞われたときに天罰が下ったと畏怖しました。天の怒りを少しでも和らげようと神官や僧侶たちが祈祷を行ないました。

 

台風や地震はあくまで自然災害であって、それらを研究している専門家からみれば大気の状態がこうなっていたからとか、ここの活断層は数百年動いていなかったのでストレスが溜まっていたからとか、そういう説明をされますと「なるほど、そういうしくみで起こったのか」と専門家でもないくせいに納得できるのが現代人であって、宗教家が「これは天罰です」と言ったとすれば馬鹿者愚か者と袋叩きにあってしまいます。

 

自然災害の多くは、科学的に説明できることがほとんどかもしれません。2018年6月に起こった大阪北部での地震についても、前述のとおり「ここのこういう活断層があってそれは何百年動いてなくて・・・」と科学的に説明できるでしょう。

 

ただ、「なぜ今起こったのか?」ということについては、科学でも答えがでません。

 

もしかしたら、「起こった」のではなく「起こした」のかもしれません。

 

もし「起こした」というのであれば、「誰が?」ということになるのですが、それは宗教を糞の山にしている限りわからないのかもしれません。

 

繰り返しとなりますが、神を求めるということが宗教の本来の目的です。それが味噌であれば、味噌は現代でもきちんと存在しています。しかし、味噌(本物)は糞(偽物)の山のために見つけにくくなっています。

 

しかし、味噌は人間を人間たらしめるのに必須のものなので、それを探さなかったり糞の山だけ見て敬遠してしまった人は長い目で見れば確実に苦難の道が待っています。

 

そして、糞の山から味噌を見つけたいを願っている人は、味噌だと思ったら味噌味の糞だったという苦い経験をするかもしれませんが、どうか諦めずに味噌を探してほしいと思います。

 

 

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人間関係での『 くそみそ 』

 

二つ目の『くそみそ』は人間関係です。

 

この言葉には、相手のことをさんざんけなすという意味があります。昨今は目立つ人を徹底的にやり込めようとする世間の空気感が半端ないですが、「糞味噌にけなす」とか「ぼろくそに言う」というのは、相手のことを尊重していないからできるわけです。

 

現代は何をやっても苦労は付きまといますし、一見幸せそうに見えていたとしてもじつはたいへんな苦悩を背負っているのかもしれません。

 

しょせん他人の心の中など分からないのですから、目に見えている事実などその人の数パーセントも表していないわけです。

 

ということは、何か意見が違うことがあったり、相性が合わないと思える場合にも、相手には相手の事情があるのだということを意識すれば、一方的にけなすということなどできないはずです。

 

ところが、人は自分の目線でみた評価を正当なものと考えますから、自分の意に沿わない他人を服従させたいとか排除したいという心理が働きます。

 

大人になって人を殴ったり蹴ったりする野蛮人は少ないと思いますが、言葉を武器にする人は少なくありません。そこには相手を尊重するといった気持ちは一切なくて、己が掲げる正義を一方的にまくしたてているという、おぞましい光景となります。

 

何かの目的があってそれをより良く達成するために意見を戦わせることは素晴らしいと思いますが、そこには『他人を尊重する』ということが大前提です。

 

それを忘れて相手をみそくそにけなすと協力関係など生まれるわけがありません。大義をなそうとするのであれば、自分も人間、相手も人間ということを忘れないようにしたいものです。

 

 

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