殺すということ (前) ~地上の世界と霊的世界の違い
罪の基準
この世で罪だと言われることは様々あります。具体的には法律を犯すことや倫理道徳に背くことです。また、無慈悲なことも罪だとされることがあります。
罪を犯しますと、警察のお世話になったり他者から非難されたりして、犯した罪を償うことが必要になったりします。これは被害者に対してだけではなく、この世の秩序を保つ役割をも担っています。
さて、地上の世界で罪だと言われているものが霊的世界でも同じなら何の問題もないのですが、結論から言いますとそうではないから困ってしまうわけです。
地上の罪と霊的な罪は一致しません。これは地上の世界では大罪でも霊的世界では何の罪もない場合もありますし、逆に地上の世界では大した問題だと思われていないことが霊的世界では大罪であることがあるということです。
地上の世界の罪と霊的世界の罪がなぜ違うのか不思議に思われる方もおられるかもしれませんが、少し考えれば誰にでも分かる単純明快なことなのです。
殺すということ
この世界にはさまざまな生き物がいますが、生きるために他の動物を殺したら罪になるのか言えばそんなわけはありません。ライオンがシマウマを殺すことが罪ならばライオンは飢えて死ぬしかありません。
さて、人間は猿のような生き物から進化したという説があります。その前は魚のような身体をしていたという説もあります。もしもこれらが事実ならば、猿のような身体を持っていた我々の祖先が他の猿を食べたら罪なのかといえばもちろん罪ではありません。
これは地上というものが出来たときからずっと変わらない法則です。
一方、霊的世界はどうなのかと言いますと、神霊と呼ばれる高貴な存在にこれに対する何かしらの意思はありません。
霊魂は基本的に死ぬことはありませんので、霊的身体には、基本的に死という概念がありません。
死がないということは殺したり殺されたりということもありません。地上の世界は食べないと生きていけない特殊な世界です。
特に人間の場合、食べるためだけではなく、自己の欲望を達成するために他者を殺します。今のように人権意識が高くない時代では、いとも簡単に人を殺していました。
しかし、霊的世界では霊魂が他の霊魂を殺すことはできません。よって、殺すという行為が起こらない場所で、殺すことを罪にしても意味がないわけです。
変わらない霊的世界、変わる地上の世界
人間が猿のような時も原始人の時も現在も、霊的世界は何一つ変わっていません。
地上の世界は古代のように権力争いで敵を殺して構わない時代から、現代のように人権意識が高くなった時代のように絶えず変化していますが、霊的世界はずっと何も変わっていません。
地上の人間だけが変わりました。
例えば、昔、ある宗教は子供を堕してはならないときつく戒めましたが、仮に現在の法律は構わないと決まったとします。
しかし、それを絶対に許せない人々にしてみると法津が悪いとなります。
現在の尺度でいえば悪とされていることでも昔は善だったということはいくらでもありますし、逆も然りです。
封建社会において支配者の言うことに堂々と異議を唱えてもよいのならその社会はかならず崩壊してしまいます。専制君主がいなくなって民主主義になれば、それは良いことだと思う人が大勢いたとしても、社会が崩壊すれば食べられない人が溢れたくさん人が死ぬかもしれません。
それは社会といった大規模なものに限らず、価値基準の一つ一つについても同じです。ある基準を別の基準に変えるために人々は争います。場合によっては血が流れることもあります。
人類は歴史の中で幾多の試練を経て現代の社会制度を築いてきましたし、今後もさらに変化していくでしょう。それは価値基準の変化により、変わることを主張する人達と変わらないことを主張する人達の争いでもあります。お互いが自分たちが善であり、対立する人達を悪とみなして排除することを繰り返していくということです。
このようにこの世の価値基準はどんどん変化していきます。
しかし、霊的世界の価値基準はずっと変わりません。
このギャップが、現代の人達を霊的に不幸にする大きな原因なのかもしれません。