何に生かされている?何に感謝する?

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「 生かされている 」という気持ちの底にあるもの

最近、「生かされている」という人が多いですが、なぜか知りませんが「何に」生かされているのか言わないことが多いです。

 

いったい何に生かされてるんでしょう?

 

神様ですか?仏様ですか?

 

仮に「神や仏に生かされている」と言いたいのならば、高貴な存在と自分は繋がっているんだと思い込みたい気持ちは分からないではないですが、残念ながら人は勝手に生まれて勝手に死んでいく存在であり、そこに神仏の意思などまったくありません。

 

 

最近、「感謝しましょう」という人も多いですが、こちらもなぜか「何に」感謝するのか言わないのです。

 

いったい何に感謝するんでしょう?

 

これも神様ですか?仏様ですか?

 

それとも「私に感謝してくれ」ということなのでしょうか?

 

「生かされている」も「感謝しましょう」も、仮にそれが神仏に向けられたものであるとしたら、ものすごく高慢なことだと思うのですが、これらの言葉を神仏に向かって気安く使っている人は何が傲慢なのか分からないから使っているのでしょう。

 

私はこの言葉を聞くたびに違和感を覚えます。「あなたは神仏の使いなのか?」と。「生かされている」ということは「生かす」存在がいるわけで、その存在が自分のことを知っているとか見守っているとかでなければ、この言葉自体が成り立ちません。

つまり、「私は神仏に見守られている存在です」と遠回しに言っているようなものであり、それは高慢以外のなにものでもありません。

 

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人間はみんな未熟だということを知る

 

この世に生まれて実践しないといけないのは、感謝することではなくて、己の未熟さを自覚することです。

 

自分が正義だと思って他人の心を平気で傷つけているということに気づかないといけません。

 

お金を稼いだり社会的地位を得ることが人生の勝ち組だと勘違いしているのならば、誰かが得をすれば誰かが損をしている、誰かが笑っていれば誰かが泣いている、その現実に気づかなければいけません。

 

自分がいつも自分の物差しでしか物事を測ることができない未熟者だと気付くことができれば、未熟者がする判断に完全などないということが分かります。

 

人は未熟だから失敗するのであって、馬鹿だからとか能力がないからと理由付けして、ただ萎縮してしまうのは正しいことではありません。

 

自己の現状を直視してどうすれば改善できるのかを自分の人生において悩みながら前進する、それがこの世を生きる意味だと思います。

 

人は高慢を捨て去って、己を未熟者と自覚してはじめて成長する余地が生まれるのです。