やはり 地道な努力 がいちばんだということ
「生かされている」は主体性の放棄なのか
「生かされている」という言葉は最近の流行りなのでしょうか。
私はこの言葉を使いませんので意味が分からないのですが、使っていらっしゃる方を何人か観察していましてもさっぱりわかりません。
ある方は「神様に生かされている」と言い、ある方は「自然という大いなる恵みに生かされている」と言われます。
かと思えば、「人はひとりでは生きているのではなく、他人や周囲の環境に助けられることで生かされている」と言われる方もおられて、これはもはや個人の主観的解釈でしかないのだなと考えるのをやめました。
いずれにしても、「生かされている」という言葉が好きな方は、なにか主体的に生きるということに消極的あるいは放棄しているように感じられてなりません。
浮世離れしても「現実」は消えない
さて、「生かされている」という言葉は仰る方によって意味は様々だということがわかりました。
それでも、謙虚さを忘れない心得えとしてこの言葉を使っている方は、それはそれで大変素晴らしいと思いますが、何か人智の及ばない何かに依存したいとか恩恵を得たいとか、すでに自分は得ているのだと考えて使用している場合は少し問題だなと感じています。
特にさきほどの例で言いますと、「神に生かされている」と仰る方は注意が必要だと思います。
現実の世界を見ましても、仮に神様が存在したとしましても人間に何の関与もしていないのは明らかです。
人間はこの世で生きるためには食べないといけませんので、働いてお金を稼ぐ必要があります。
家族を持てば、子どもを養わないといけませんし、高等教育を受けさせようとすればさらにお金がかかります。
この世で生きるためはお金が必要なのですが、そのお金を稼いでいるのは人間であって神様ではありません。
明日の食事にも困るような状態になったとしても、神様がお金を下さるわけではありません。
「神に生かされている」と思っている方が、それを心の支えとして頑張って生きていこうと思っておられるのならばともかく、何かを貰おうとか何かを実現してもらおうなどと妙な夢を見てしまうとそれは心の支えではなくむしろ害毒になってしまいます。
浮世離れしても「現実」は消えませんし、かえって事をこじらせてしまうことになりかねません。
「現実」は 地道な努力 で変えていくしかない
厳しい現実を直面したとき、夢を見たいというのは仕方のないことです。
しかし、夢はいつか醒めるときがやってきます。
現状を変えたいという気持ちは大切ですが、棚からボタモチのように労せずして幸運を手にいれようとすると、何やら怪しげな主張に騙されることになります。
生き方を指南してほしいと思うのであれば、何もせず果実を得られることを宣伝しているところではなく、果実が欲しければ自分で育てましょうというところで学ぶべきです。
これはスポーツに例えれば分かりやすいかもしれません。
「入会するだけで日本代表になれますよ」という教室と、「日本代表になれるための練習方法を指導しますよ」という教室があった時、どちらがマトモなのか一目瞭然です。
どの分野であっても、地道な努力が必要だということなのでしょう。