肉体の死 ~地上の罪と霊的な罪

肉体の死

 

 

胎児が人になる時

 

厚生労働省が公表している「平成28年人口動態統計月報年計(概数)の概況」によりますと、出生数は97万6979人だそうです。
一日あたり約2,676名の赤ちゃんが誕生しています。

 
ところで、民法第三条に規定されている通り、人が人として私権を享受出来るタイミングは胎児が母体の体外に完全に離れたときから(全部露出説)です。
(ちなみに刑法では一部露出説を採用しています)

 
相続や損害賠償請求権などの例外はありますが、胎児は法でいうところの「人あるいは自然人」の扱いを受けません。

 
じゃあ、殺しても良いのかといえばそんなわけはなく、非合法的に人工妊娠中絶をしますと堕胎罪となります。
しかしこれは胎児を保護と間接的に母体の保護を目的としており、殺人罪のように人の生命を保護するための罪とは区別されています。

 
我が国の法律はこのようになっていますが、宗教的には受精した時から人であり中絶は殺人であるという主張もあります。どちらが正しいかはさておき、水波霊魂学の見解を以下に書いていきます。

 

 

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霊的観点からみた「肉体の始期と終期」

 
水波霊魂学ではこの世の生き物には肉体と幽体が重なっていると主張しています。したがいまして、人間を含めた生き物の始期は肉体と幽体を分けて考えないといけないわけです。

 
胎児のように地上に生まれていない生命であっても、地上にいる人間が死を迎える時でも、水波霊魂学における死の基準は同じです。それは「幽体が肉体から完全に離れて再び戻って来れなくなった」時点が肉体の死です。

 
これは以前の記事にも書いたことがありますが、人間は霊的生命体でもあります。それは幽体が重なっているからですが、霊的な観点で人の始期を考える上で幽体がいつの時点で胎児に入ったかということが重要です。

 
結論を先に言いますと、じつは受精したほぼ同じタイミングで幽体は肉体にダブっています。つまり幽体は受精のタイミングで受精卵に入り込んでいるということです。

 
受精卵はおよそ0.1mmですので、この段階で肉体ってなんぞや?と疑問に思う方もおられるかも知れませんが、精子と卵子のそれぞれの核が融合して新しい生命体(この段階では受精卵)が生まれるわけで、受精卵の核には”肉体のもと”になるものも当然含まれているわけです。

 
その部分を科学的には肉体とは呼ばないかもしれませんが、霊的にはこの部分と幽体は重なっています。

 
つまり、霊的にいえば受精した瞬間から霊的生命体として生きていることになります。

 
よって胎児であろうと成人であろうと霊的生命体としての価値に違いはありません。

 

 

流産と霊的な罪

 
最近は妊娠検査薬などの精度が向上して以前よりかなり早い段階で妊娠の有無を判定できるそうですが、それでも早くて3~4週間はかかりますしそれから医師による確定診断となりますと妊娠2か月くらいというのが多いパターンではないかと思います。

 
しかし、実際は妊娠が分かる前に残念ながら流産してしまっていること(化学的流産)も多いそうです。

 
これはもちろん母親には何の責任もないことでたいへん不幸な事故なのですが、霊的にいえば人という霊的生命体としての始まりは受精からですので、生命体としては死を迎えていることになります。

 
ならば、これは霊的に罪なのでしょうか?

 
ここでは法律はちょっと横に置いて考えます。

 
仮に妊娠3カ月で意図的に堕ろしたとしたら、それは霊的に罪でしょうか?

 
それでは、今後医学がさらに進歩して妊娠9か月でも中絶できるようになったとして、そこで産まないで中絶したら霊的に罪なのでしょうか?

 
逆に7カ月で無事出産した赤ちゃんを殺したら霊的に罪でしょうか?

 
この場合はもちろん法律では殺人罪ですが、片や9カ月で中絶したら何の罪にも問われないのに、7カ月の子を殺したら罪に問われるのは何やらおかしな話です。

 
医学の進歩は人の生と死の定義を変えていきます。そうなれば法律も変わり人々の意識も変わざるをえなくなります。しかし、それは「この世の事情」に過ぎません。

 

 

胎児であろうと成人であろうと「死は死」

 
人間社会の基準では法律によって判断されますので、赤ちゃんを殺せば殺人ですが胎児を中絶しても殺人ではないということになります。

 
しかし、霊的世界の法則はそんな「この世の事情」には何の関係もなく、医学が進歩しようとしまいと法的な責任があろうとなかろうと、基準は何一つ変わっていません。

 
受精した瞬間から人という霊的生命体は生きています。妊娠7カ月で胎児と呼ばれて母体の中にいても外に出て赤ちゃんと呼ばれていても同じように意識活動をしています。

 
さらに言えば、幽体にも意識がありますので、じつは受精後1週間でも小さいながらも意識活動はあります。

 
ならば法律的や医学的には人と認められなくても、霊的生命体として存在している以上は死は死であることに変わりはありません。

 

 

霊的世界は何も変わっていない

 
人は社会の中で生きています。その社会というものが法を定めています。

 
ですから、簡単に言ってしまえば、社会が罪だといえば罪になりますし、これは善だ、これは悪だと社会が決めているにすぎません。

 
そして、社会は常に変化しています。100年前は罪に問われなかったことが現代では罪になるということはざらにあります。

 
それでは霊的世界はどうかといいますと、そんな地上の社会の変化とは一切関わることなくずっと変わっていません。

 
人がまだ猿の頃から他の動物を殺していた食べていた頃から現在に至るまで、悪だとも善だとも一切言っていません。

 
そうなると、堕ろすことは、善なのか悪なのか?

 
これは地上の基準が決めることであり、霊的世界には何の関係もないことです。

 
今回は人が生まれる時のことをメインに書いていますが、死ぬ時も同様です。昔は心臓が止まり脈拍がなく瞳孔が散大していれば死んでいると言われましたが、現代では心臓は動いていても脳が機能を停止していれば死んでいると言われます。さらに医学が進歩すれば死の基準はさらに変化するかもしれません。

 

 

最後に - 勘違いしないでほしいこと

 
ここまで書いてきましたように地上の世界と霊的世界では基準が違います。しかし、だからといってこの世で人が死ぬことは家族や友人にとっては辛く悲しいことなのは当たり前のことです。

 
死については霊的観点から言えばいろいろ複雑なのですが、それでも人の死はどんな理屈を超えて重いものであるということを忘れないでいただきたいとおもいます。

 
そこを勘違いしますと、地下鉄で毒を撒くような人や死後天国に行けると言われて自爆する人が出てきてしまいます。

 
霊的世界を正しく知れば、自分の命も他者の命も霊的生命体としての価値は同じだと気づくことができます。このことでも、私は水波霊魂学を学ぶ価値の一つであると考えています。