『 マッチ売りの少女 』で知るべきこととは何か

マッチ売りの少女

マッチ売りの少女

 

マッチ売りの少女という童話をご存じの方は多いと思います。これはアンデルセンの創作童話で1848年に発表されました。

 

大まかなストーリーは、大晦日の夜、街でマッチを売っている少女がいましたが、マッチが一つも売れませんでした。少女は凍えた指を暖めようとしてマッチを1本擦ったところ、大きなストーブが現れました。2本目のマッチは鵞鳥などのご馳走が並んだテーブル、次のマッチでは大きなクリスマスツリー、次のマッチでは少女をただ一人愛してくれた今は亡き祖母が現れました。マッチの炎が消えると祖母も消えてしまうことを恐れた少女は、慌ててマッチ一束に火を付けたところ、祖母は少女をその腕の中に抱き、神のみもとへ旅立っていきました。

 

この話は誰でもこのように認識しているのかと思っていましたが、いつ発表されたのかはともかく、改訂版なるものが存在するようです。そこでは大晦日がクリスマスに変更されていたり、少女が亡くなった場所が町家の一角ではなく教会の前になっていたり、救いの手を差し伸べてあげられなかった街の人々が嘆き悲しんだり、少女の亡骸を発見した牧師さんがミサでこのような悲劇を起こしてはならないと諭して終わるといったものに変更されているようです。

 

父親に虐げられていた少女の死やそれに無関心な人々の存在はまさしく悲劇に違いないのですが、かといって改訂版なるものはかえって物語の本質を曲げたり改悪されたのではないかと私は感じています。

 

 

スポンサーリンク

少女の死はバッドエンドなのか

 

少女がラストで亡くなってしまうことを悲しいとか残酷だとかかわいそうだと思うことをとやかく言うつもりはありませんし、彼女を死に追い込んだ父親や、彼女の境遇にまったく無関心の街の人たちを批判することも然りです。

 

この物語の登場人物は亡き祖母以外は、彼女にとって敵とまでは言いませんが味方ではありません。そういうこともあって、この物語には何の救いもないと感じた方が多かったのでしょう、だから改訂版なるものが出来たのだと思います。

 

アンデルセンはこの物語を書くにあたって、母親の不遇だった子ども時代を意識しているといわれています。よって、絶対的な貧困や虐待されている人々の存在に気づいてほしいという気持ちやなぜそのようなことが起こるのかについてもよく考えてほしいという気持ちが強かったそうです。

 

しかし、一方でアンデルセンの他の童話を読めば分かるのですが、彼は「報われないものはどうしても報われない」といった厳しい現実をすごく意識しているリアリストでもあります。

 

彼はキリスト教の考え方に基づいて、この世でどれだけ苦しんだり報われない人生を送ったとしても死後に魂が救われることがあるということをこの物語の結末としたのでしょう。

 

確かに死という結末はバッドエンドに見えても仕方がないのですが、最終的には少女は祖母に連れられて安らかに天に召されたのですから、この世に生き続けて苦しみ続けることを考えれば、それはむしろハッピーエンドなのかもしれません。

 

苦悩している人に、「とにかく生きていれば何とかなるよ」と言うのは簡単です。しかし、死をもってしか苦悩を脱する方法も可能性も見いだせない状況にある人からみれば、そのような言葉は空虚かつ無意味なのは今も昔も変わりません。

 

私はこの物語は魂の救いという意味でハッピーエンドだと思っています。彼女は死によって救われました。

 

『少女の死』にだけ目を奪われてバッドエンドと決めつけるのではなく、この物語をこの世を生きる上の教訓とするのならば、『少女の死』そのものではなく少女を死によってしか救いを得られないまでに追い込んでしまった状況こそを憂うべきなのです。

 

このことは、物語の最後の部分、祖母が現れる以降の部分をばっさりカットしてしまえば分かりやすいと思います。この日の夜に天に召されなければ少女はマッチが売れないだけではなく指や足に凍傷を負い、父親から虐げられ明日も街角でマッチを売らなければならないのです。助けてくれる人など誰もいない街角で。

 

「生きていれば何とかなるよ、頑張って。」

 

もしも街角でマッチを売っている少女を見つけたらそんな言葉をかけてあげますか?

 

お金があるのならマッチの1本でも買ってあげますか?

 

そして、人助けをしたと自己満足に浸りますか。

 

この少女はそれで救われましたか?

 

 

少女は死を救いにできた

 

マッチ売りの少女は翻訳がいくつかありますが、私は結城浩さんの訳が好きです。

 

結城浩訳には以下の一節があります(下線は筆者)。

 

おばあさんは、少女をその腕の中に抱きました。 二人は、輝く光と喜びに包まれて、高く、とても高く飛び、 やがて、もはや寒くもなく、空腹もなく、心配もないところへ――神さまのみもとにいたのです。

(中略)

「あったかくしようと思ったんだなあ」と人々は言いました。 少女がどんなに美しいものを見たのかを考える人は、 誰一人いませんでした。 少女が、新しい年の喜びに満ち、おばあさんといっしょにすばらしいところへ入っていったと想像する人は、 誰一人いなかったのです。

マッチ売りの少女
Copyright (C) 1999 Hiroshi Yuki (結城 浩)

 

私がマッチ売りの少女は死ぬことで救われたと思う理由は、彼女が旅立った世界が『寒くもなく空腹もなく心配もない場所』だったからです。

 

さらに言えば、最後に少女を迎えに来たのは祖母ではないと思っています。「ある存在」が祖母の姿を見せることで少女を安心させたのです。それによって死という辛い現実に心を乱されることなく少女は安らかな気持ちで他界できました。誰でも死が近づいていると感じることは恐怖なのに、少女はそれを感じなくて済んだのですから、これほど幸せなことはありません。

 

しかし、彼女の亡骸を見た街の人たちは、彼女が死を恐れて必死にマッチを擦ったのだろうとしか考えられませんでした。

 

私は大晦日の夜とは辛かったこの世の最後の日ということであり、新年の喜びとは死んだ後に行った場所(あの世)が喜びに満ちた場所であったということを意味するのではないかとすら思っています。

 

ですから、大晦日をクリスマスに変更したり、牧師が能書きをたれることは改悪だと思うのです。

 

この物語から知らなければならないのは、たとえこの世を生きることは辛いことの連続であっても、せめてあの世では救われなければならないということです。

 

少女は自分を虐げる父親も無関心な街の人々も恨みませんでした。命の灯が消えようとしている最期の時に思ったのは、自分を愛してくれた祖母のことでした。

 

だから彼女は救われたのだと思います。

 

この世での少女の人生は短かったのかもしれませんが、あの世で永遠に続く人生は幸せなものになることでしょう。現代の人たちにとっては高嶺の花である喜びの場所への切符を少女はいとも簡単に手に入れることができました。

 

この世で生きた時間の長短や実績など霊的な世界の法則とは何の関係もありません。

 

 

<参考>

マッチ売りの少女(ハンス・クリスチャン・アンデルセン作 結城浩訳) ※外部ページ

http://www.hyuki.com/trans/match.html