錯覚 で幸せになったと思い込まないために

錯覚

 

 

人はみな「 錯覚 」して生きている

 

さっかく【錯覚】

①事実とは異なるが、そうであるかのように思うこと。思い違い。勘違い。

②《心》あるものについての知覚が客観的事実と著しく食い違うこと。

大辞林より引用

 
人は誰でも大なり小なり「錯覚」して生きています。

いつも一緒にいるので親密な関係だと思っていたら、いざという時に何の救いの手も差し伸べてくれないことにショックを受けたり、明日も生きていることを誰にも保証されていないのに10年後の計画を立てたりしています。

 
もちろん、それが悪いことであるということを言いたいのではなく、私たちは他人の心の内を読み取ることもできなければ、未来のことも分からない存在であるということを言いたいわけです。

 
しかし、分からないからといって何もしないわけにもいきません。周囲との人間関係を円滑に保つための気配りは欠かせませんし、明日も生きていることが保証されていなくても将来のために勉強しなくてはなりません。

 
錯覚とは、一部の人が現状を誤って知覚することによって起こる特殊な状態をいうのではなく、そもそも人間はみんな錯覚して生きているのです。したがいまして、錯覚を善悪の基準で捉えるのは基本的に誤りです。

 
仮に相手も自分に好意を抱いていると思って告白してみたら、相手は自分のことを恋愛の対象として見ていなかったとします。当然ながらショックを受けることになりますが、その時に錯覚をした自分を愚かだと責めたり、自分をその気にさせたといって相手を逆恨みすることは、自分と相手を善悪の基準で裁くことです。

人間関係において「善悪」を持ち出しますと必ず対立関係が生まれます。対立しても良い結果など生まれませんし、精神的に疲弊するだけならまだしも犯罪の種になってしまいますと、人生を狂わせることになってしまいます。

 
私たちは誰でも錯覚して生きているわけで、それが錯覚だと分ければその時点で軌道修正を図れるように心の持ち方を常日頃から意識しておくことが大切です。

 

 

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宗教は魂の救いとなるか

 
私は水波霊魂学を学んでいる者ですので、魂のことであったり、真の救いとは何かであったり、そういったことはすべて水波霊魂学から得た知見です。

 
私の霊魂学の師である水波一郎先生は、霊魂学についての著書を多数刊行されておられますが、その中に『霊魂からの伝言』という書籍があります。この本は死後の世界に行くことを前提にした場合、この世をどう生きれば良いのかという視点で書かれています。

霊魂や死後の世界を信じない方にとっては何の価値もないかもしれませんが、それらを信じる方にとってはこの世を生きる指針が書かれていますので一見の価値があります。

 
同書の中にとても印象に残った一節があります。それは宗教の救いについて触れられた部分なのですが、人と宗教とのかかわりについていくつか例を挙げて説明されています。

 
人が宗教に入信するきっかけはたくさんあると思いますが、多いパターンとしては、一つは親が信じている宗教に子が入信する場合、もう一つは大きな苦悩や挫折を経験して入信する場合があると思われます。

 
仮に大きな苦悩や挫折を経験して宗教に入信し、そこでの教えが心の支えとなって何とか生きているという方がおられたとします。

この場合、心の支えになったのは確かですからそれは救いなのかもしれません。挫折によって夢を絶たれた人や孤独に苦しんでいる人、そして家族を残してこの世を去らねばならない人にとっては、宗教が言う「神の導き」や教義は精神的な救いになるかもしれません。

 
しかし、同書でははっきりと言い切ります。

 

しかし、敢えて言う。それは確かに救いであるが、客観的に言えば、心の錯覚である。錯覚して心が救われたのである。

真の神はそこには居なかったのであるから。

人は心で生きている。だからこそ、錯覚しても幸せになれる。

 

水波一郎著 霊魂からの伝言 第六章 愛と幸福

 
宗教は精神的な意味では価値がありますし、心の支えになればこの世を生きる力にはなり得ます。当然ながら、法に触れたり人に迷惑をかける宗教は困りますが、たとえ教えの内容が嘘であっても、それによって心が潰れないで生きていられるのであれば、ないよりもあったほうがましです。

 
しかし、水波霊魂学は「人はこの世だけを生きているのではない」と主張しています。この世を終えた後にも長い長い人生が続いていくわけです。

その前提に立った場合、この世だけでしか通用しない教えによって一時的に心は支えられたとしても、他界後に現実を知って絶望してしまえば、その人の魂としての一生を考えた時、それは不幸でしかありません。

 

 

心の錯覚で終わってはいけない

 
宗教やスピリチュアルの世界の中で生きていれば、「心の錯覚」によって一時的に幸福感を得られるかもしれませんが、人は熱心な宗教信者であっても、無神論者であっても、これらに無関心であっても、この世を生きる目的が自身の欲望を満たすためである以上、どのような生き方を選択しても幸せにはなりにくいのです。現代のように価値観が多様化して、求める欲望も多岐にわたっている時代は特にそうなのです。

 
信仰を持たない生き方を選んだ人は、そのように生きればいいですし、当ブログの想定している読者ではありません。そもそも、そのような考えの方がこのブログを読むわけもありませんので、ここでは少しでも霊魂や死後の世界に関心がある方に向けて申し上げたいことがあります。

 
それは、人は長くても100年位のこの世界だけを生きるのではなく、他界後は半永久的と言っても過言ではないくらい長い長い時間を生き続ける存在だということです。

この世でしか通用しない価値観や知識をいくら詰め込んでも、他界後の人生に何の役にも立たなければ困ったことになります。

 
幼稚園でいくらお遊戯が上手くても、小学生、中学生と成長していけばそれが何の役にも立たなければ、幼稚園にいる時間が全てだと思い込んでお遊戯に人生を賭けられても困るわけです。

 
人という存在は単なる肉体の存在ではなく、霊的な生命体であるという視点に立って、この世と他界後を一つの人生として、この世を生き抜くための知識を身につけるのと並行して、他界後に必要となり知識を知ったり、今から準備をしておくことが非常に大切なのです。