【水波霊魂学】幸福を追求すると霊的な罪を作るということ
幸福
恵まれた状態にあって不平を感じないこと。満足できてたのしいこと。めぐり合わせの良いこと。また、そのさま。さいわい。しあわせ。
「精選版日本国語大辞典」より
私の場合、恵まれた状態と聞いて、まず思いつくのは、経済的な余裕、仕事のやりがい、良好な人間関係です。同様に満足できて楽しいとは、心理が肯定的気分で満たされて、物事にも積極的に取り組めて結果も出せて、さらに笑顔でいられるみたいなことを想像します。
人にとって幸福といえる状態がが長く続けば、毎日の生活は心身ともに充実したものになることでしょう。
大多数の人は、自身に幸福が訪れるように毎日の生活を頑張っていると思います。
そしてそれはこの世を生きぬく上ではとても大切なことです。
しかし、幸福あるいは我が世の春を謳歌してそれで一生を終えてしまうと霊的には困ったことになります。
たとえ世間から勝ち組、成功者、人格者などと褒め称えられても霊的には進歩どころか退歩していることが多いのが現実のようです。
なぜそのようなことになるのかと言いますと、人はこの世で幸せになるために生まれてきているのではないからです。
本来やらなければならないことをそっちのけにしていれば、他界後の評価は「あなたは地上の世界に何しに行っていたのか。まったくの無駄だった」となるのは当然のことです。
地上の世界での競争を勝ち抜いてきたとしても、それはあくまでやむを得ず競争するのであって、いくら競争社会だとはいえ本性丸出しにしてただ他人を蹴落としてきたのでは、残念ながら新たな罪を生産しているだけです。
死ねば終わりだと思っている人に限って、元気な時は調子に乗りますが死期が近くなるとなぜか神や仏に縋りだすという「あるあるネタ」が存在するのかどうかは知りませんが、死後の世界があるかないかは2つに1つです。
誰が何と言おうと、2つに1つです。
あるのかないのか、自分で判断するしかないのです。
そしてご自身が下した判断によって、死後に見える景色が確実に変わります。
生まれてしまったことは、苦難の始まりでもありますが同時に過去の罪を解消するチャンスでもあります。
死を意識する頃になってソワソワしても、知り合いに霊術家でもいないかぎり、ほぼ手遅れです。
死後の評価とは、死んだ時に幽体の状態がどうなっているのか、それだけです。
幽体の状態によって死後に住む世界が変わります。結果的にそれが辛く苦しい世界だったとしても、閻魔大王は実在しませんので抗議できる窓口はありません。
死後にいわゆる下の世界に入ってしまって、なんで自分がこんな世界に入らないといけないんだと抗議している霊魂もいるらしいのですが、残念ながら苦情を受け付ける窓口もありませんし、上の霊魂も助けたいと思っているのですが、現実にはそれも難しいそうです。
つまり、地上の世界にいる間が勝負だということです。幸福を追い求めることが悪いわけではありませんが、それよりも大事なことをおざなりにしてしまうと本末転倒だということです。