信仰
しんこう【信仰】
1 神や仏などを信じ敬い、その教えに従おうとすること。
2 特定の対象を絶対的なものとして信じこむこと。
(明鏡国語辞典)
信仰という用語は、もともと宗教的な概念に対して用いられてきました。
人が「神や宗教の教義を信じる意識」に焦点をあてた言葉ですが、困ったことに宗教や教えといわれるものは数え切れないほど存在し、ある宗教や教えを信じて従うと、他の宗教や教えを間違いだと決めつけたり、排除しようとしたりするために、これまで幾多の争いが起こってきました。
これは「私は正しくてあなたは間違い」という、主観のぶつかり合いと押し付け合いが原因の一つなのは言うまでもありません。
客観的な判定ができないものについては、しょせんは想像や推測であっても、自分の主観を絶対視してしまうのが人間の本性である以上、議論はどこまでいっても堂々巡りするしかありません。
さて、信仰という用語は、最近は宗教だけではなく他の分野にも使われるようになりました。
科学信仰、学歴信仰などという言葉は割と広く用いられている例だと思いますが、信仰であろうとなかろうと科学者の発表した説やデータについて私たちはそれを検証する術がありませんので、社会がうまく運営されるためにはある程度信じ込まないと仕方がないという面もあるのでしょう。
例えば、「人の死」というものは、昔は心臓が止まったり呼吸が止まったりすることでした。脈を取れば心臓が動いているかどうかは分かりますし、呼吸の有無については素人でも判別できます。したがって、昔は患者の家族にとっても死というものを客観的に感じることができました。
しかし、科学技術(医学)の発展によって、心臓は動いているけれども脳全体の機能が失われた状態ということが起こるということが分かってきました。いわゆる「脳死」です。
現在では我が国も含めて世界のほとんどの国で「脳死は人の死」とされています。
ただ、心臓は動いていますので身体を触れば暖かいですし、人工呼吸器を付けているとはいえ呼吸もしています。
患者の家族はどのように自分を納得させるのかといえば、医者の言うことを信じるしかありません。「脳死になれば回復の可能性はありません。」と言われたとしたら、その言葉を信じこむしかないのです。
科学は未だ発展途上です。
DNA鑑定の例でも分かるとおり、20年前の精度と現在の精度には雲泥の差があります。最新技術の医療機器であっても身体の状態を細胞単位でモニターできませんし、脳についても解明されていない部分がたくさんあります。
辛い現実を目の当たりにして、何かしらの判断をしないとならない時、人は自分の主観で判断するしかできません。
それが「人の死」をいう重大な問題であっても、何を信じて何を信じないのかを取捨選択していくしかありません。
したがって、信仰の対象が「宗教」であっても「科学」であっても、いわば完成型が分からない以上は、自分自身が客観的な材料を集めた上で主体的に最終判断していくしかありません。