藁にも縋る 思いで神頼みする?

藁にも縋る

 

 

『 藁にも縋る 』は相手に対して失礼なこと

 

わらにもすがる (藁にも縋る)

せっぱつまったときは頼りにならないものまでも頼りにすることのたとえ
明鏡国語辞典より

 

人は人生を生きる上でさまざまな困難に直面します。独力では解決できそうもなくて途方に暮れてしまった時に、他人に対して助力を乞うこともあります。
その時に、「本当に困っています。藁にも縋る思いなんです!」という方がおられますが、辞書の意味をご覧いただければお分かりの通り、藁にも縋るという言葉は『頼りにならないものにまで頼る』という意味ですので、相手に対してとても失礼な言い回しなのです。
切羽詰まっているのは気の毒なのですが、どのような状況に置かれても言葉の使い方には気を付ける必要があるでしょう。

 

 

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人の祈りは神に届くことはない

人は人生を生きる上でさまざまな困難に直面しますが、その中でもいくら足掻いてもどうしようもないことがひとつあります。
それは「死」です。
現代医学をもってしてもどうしようもない病におかされた時、別の何かに縋ってでも生きたいと願う人がいます。
常日頃から科学を信奉して神仏を馬鹿にしたり無視したりした人が神に縋る気持ちは、まさしく藁にも縋る思いなのでしょう。
しかし、切羽詰まってから神に縋っても無駄です。
なぜなら、人がいくら祈ってもそれが神に届くことなどありえないからです。
ただでさえ水波霊魂学を真剣に勉強して霊的トレーニングを欠かさないような方であっても非常に困難なのです。霊的トレーニングを実践している人の幽体はとても成長していますが、幽体は幽質界で使用する身体です。対して、神といわれる霊魂は水波霊魂学で「神体」と呼ばれる霊的身体を持っておられる方々です。幽体の存在が神体の存在と直接交流することは霊的な身体が違いますので不可能です。
人間は「神体」という霊的な身体を所持していません(ごく一部の例外を除く)。したがいまして、人の祈りは神には届きません。
それでは、誰に届くのかといいますと、幽質の身体を持った存在(霊魂)です。さらに詳しく言えば、祈りを発した人の幽体と同じレベルの霊魂に届くということになります。
簡単に言いますと、幽体が成長している人は上位の霊魂に、幽体が不調の人は下位の霊魂に届くということです。

 

 

霊魂の世界に本音と建前は通用しない

表面の心は「助けてほしい」と本心から思っていたとしても、心の奥では神を馬鹿にしたり、神などいるわけがないが仕方がないという気持ちがあった場合、人は騙せても霊魂を騙すことはできません。
霊魂の世界は「想念の世界」です。思いはそのまま相手に伝わります。本音と建前を使い分けることなどできません。
仮に幽体がそこそこ成長している人であっても、本音が神を馬鹿にしていたのであれば、思いは上位の霊魂に届いたとしても、そんな人を助けようと活動する霊魂などいません。
上位の霊魂は神霊に命がけで仕えています。
生半可な気持ちで祈るということは、これらの霊魂に対して失礼なだけではなく、実際は自身の幽体と同じレベルの霊魂にしか届かないのですから、神に祈ったつもりが不道徳な霊魂に対して祈っていたということになる人が大半です。
したがいまして、藁にも縋る思いで何を祈っても無駄だということになります。

 

 

神は縋るために存在するのではない

現代の人々は宗教嫌いの方が多いのですが、これは宗教そのものが悪いのではなく運用する人間が悪いということを知るべきです。会社を経営する者がブラックだからその会社はブラック企業になるのと同じです。
神仏はいざという時に手を差し伸べてくれるような便利な存在ではありません。常日頃から繋がりを得ようとする努力が必要です。もちろん、人間が神仏に対して直接的な繋がりを得られることはありませんが、頑張れば神に仕える上位の霊魂には思いが届く可能性があります。
この世で過ごしている間に、何とかして上位の霊魂との繋がりを作ることが非常に重要なのですが、ほとんどの人はそれが出来ずに他界していきます。
昔のように神社仏閣に足繁く通っていれば、それらの施設に下りている高い気を自然に吸収出来たという時代ではありません。
私は「自己責任」という言葉はあまり好きではありませんが、霊的な成長に関しては自分自身で選択しなければどうにもなりません。
何もしないのに他人が助けてくれることはありません。霊的な事柄は昔の霊的な達人がおっしゃったように、「求めよ、されば与えられん」なのです。