他罰的な人 が霊的に不幸になる理由

他罰的な人

 

 

 

他罰的・外罰的とは

 

アメリカの精神分析家ソウル・ローゼンツァイク(Saul Rosenzweig)が開発した心理テストにP-Fスタディ(絵画欲求不満テスト)があります。

 

このテストはフラストレーション(欲求不満)の状況を描いた24枚のイラストを被検者に見せて、片方の人物の発言について、自分がどう思ったか、自分だったら何を言うのかをもう片方の人物になりきって記述することで性格の特性を分析していきます。

 

このテストは、『攻撃性の方向』と『フラストレーション反応の型』の2次元の組み合わせで行いますが、『攻撃性の方向』について、他罰的・外罰的(他人を責める)、自罰的・内罰的(自分を責める)、無責的・無罰的(誰も責めない)の3つに分類されます。

 

今回は他罰的・外罰的な人が霊的に救いようがなくなる可能性が高い理由を書いていこうと思います。

 

 

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他罰的な人 の特徴

 

ここでいう外罰的・他罰的な人の特徴は、思うようにならないことや困ったことに遭遇した時に、その原因を自分以外の外部の人や環境のせいにすることです。

 

こういうタイプの人は、物事を善悪という基準で判断しようとする傾向があって、しかも自分は常に正しいと考えています。

 

それだけではなく、相手が自分より弱いとみれば執拗に責め立てますが、強い相手には沈黙したり媚びへつらうような行動をとるかもしれません。しかし、その場合であっても攻撃の方向はあくまで外部にありますのでその人がいない所で陰口をたたくことになります。

 

外罰的・他罰的な人は自分を常に正しいと思う傾向が強いので他人の意見に耳を貸すということが少ないように思えますし、得てして自分のことを分かっていない場合が多々あり、周囲から煙たがられたり嫌われていたとしてもそれに気づいていないこともあります。

 

 

他罰的な人が霊的に不幸になる理由

 

さて、こういう傾向の人を霊的な観点で見れば、恐らく他者から念がたくさん飛んできている可能性が高いですし、その場合は他界後は下の世界に落ちることになります。しかし、他界しても表面の心は変化しませんので、自分に起こったことに納得できず、死んだ後もずっとその原因を他人や環境のせいにします。

 

他界後に行く幽質界の下の世界は、いわば弱肉強食の世界でもあります。したがいまして自分より強い霊魂には決して逆らうことはできませんが、あちらの世界では面従腹背が通用しませんので、結局は辛い目に遭う可能性が高いです。

 

一方、上の世界に住む霊魂は自由意志を尊重しますが、たとえこれらの霊魂と会える機会があったとしましても、あくまでアドバイスや忠告の範囲ですので、そういう相手に対しては他罰的・外罰的傾向丸出しで強く自己主張することになり、結果的に上の世界の霊魂の言うことには耳を貸すことなく、救いの手を自ら振り払うようなことになってしまうのです。

 

それでも、これらの霊魂が死後の世界(幽質の世界)にいるだけでしたら、それは自業自得とも言えるのですが、何かの拍子で地上の世界に舞い戻ってきた時に困ることがあります。それは地上の人間に干渉する傾向が強いということです。

 

地上の人間を相手にしてうっ憤を晴らす霊魂

 

他罰的・外罰的な人は、外部に責任を求めます。『三つ子の魂百まで』という言葉がありますが、地上時代に形成された性格は霊魂になっても簡単には変わりません。この場合、地上の人間が霊魂を視覚できないことをいいことに、攻撃の矛先をこちらに向けてくる可能性があります。

 

彼らは自分こそが正しいという独善的な心情を持っているので、仮にこういう霊魂が先祖にいると子孫が困ることがあります。例えば先祖供養こそ正しいと思っている霊魂は、それを疎かにしている子孫を許すことができません。

 

地上の世界に長く留まっていれば、地上の様子が徐々に分かってきますし、対象が赤の他人であっても、その人が気にくわないと平気で干渉するかもしれません。

 

こうなってしまいますと、救いようがありません。誰の意見にも耳を貸しませんし、自分より強い霊魂からは逃げ回り、地上の人間に悪さを続けていればいずれは上の世界の霊魂の逆鱗に触れて、元にいた世界(下の世界)に連れ戻されることになります。

 

つまりは、出口(魂の救い)がなく八方塞がりです。そうなってさえ、いつまで経っても責任を他人や環境にせいにし続けるのですから、まさしく悲劇です。

 

したがいまして、他罰的・外罰的傾向を持っていると自覚している方は、この世にいる間に何とかしませんと悲劇的な結末が待っています。といいましても、性格を変えることは簡単ではありませんし、そもそも自分が正しいと思っているのですから、どうにもならないのかもしれません。

 

しかし、それでもわずかな可能性に賭けるとするのならば、人間はいつまで経っても未熟な存在だということを知るような機会が訪れることを願うしかありません。人は誰でも神様から見れば未熟な存在なのですから、やはり神への信仰心がない人にチャンスが訪れる可能性は低いかもしれません。