欲求を否定しすぎると 心の反動 が起きる

greed

 

今回は、欲求を過度に否定することによって、起こりかねない 心の反動 について取り上げます。
欲求についての考え方は、仏教における少欲知足(未だ得られないものを欲せず、得られたものに満足する)や心理学でのマズローの欲求階層説など多岐にわたりますが、当ブログでは水波霊魂学による考え方を基にしています。

 

「 心の反動 」とは心の奥の暴発のこと

人間の心には普段意識できる部分(表面意識)と、生まれて今までに経験したことで現在は忘れている部分(潜在意識)があると言われます。この2つの領域は肉体の脳が持つ意識なのですが、水波霊魂学ではその奥にさらに深い意識があると言っていて、この意識はふだんは肉体の意識に隠れてようなかたちになっています。

しかし、奥に隠れて何もしないわけではなく、常に何かしらの自己主張をしています。ただそれが心の奥深くで起こっているために、それらの自己主張が即時的かつ直接的に肉体の表面意識に影響を与えることはほとんどないというだけです。

ただし、時にその主張が激しいものとなった場合は、肉体の意識が弱まった場面にぐっと表面の意識に影響を与えることがあります。

心の奥深くある部分は、表面の心のように教育を受けているわけではありませんし、理性によるハードルも低いですので、そこから湧き上がる欲求は、この世を生きる社会的ルールとかそんなものは関係なく、自分のやりたいことを実現させようします。したがって、心の奥の欲求が表面の理性に勝ったような状態で行動してしまいますと、人間関係を壊したり、場合によっては警察のお世話になるようなことをしでかしてしまう可能性が高くなります。

 

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欲求に善悪はない。他人に迷惑をかけるものをコントロールできるようにする

そういう意味では、意識の奥を如何にコントロールするかで人生が大きく変わると言えるのですが、これをコントロールした人生と放置した人生を並べて比べることは不可能ですし、科学的に証明されていない分野である以上、その選択は個人の自由意思によることになります。

右か左かの選択がある時、人は選択した結果の人生しか経験することはできません。仮に右を選んだのならば、左を選んだ時の人生は推測するのみです。

 

仮に意識の奥をコントロールしようと決めた時、ここから欲求を消してしまえばいいのかと言いますと、単純にそうならないところが難しいところです。なぜなら、欲求は生きるための必要条件としても存在するからです。

食欲にしろ、性欲にしろ、それは生きるため、子孫を残すために必要なのであって、欲求を悪だと決めつけて無理に消そうとするのは、生きることそれ自体を自己否定しているのに等しいことです。

つまり、欲求は善でも悪でもなく、人に備わったものであると肯定した上で、他人に迷惑をかけそうな欲求に関してはそれをコントロールするというのが正しい態度と言えるでしょう。

 

他人に迷惑をかける欲求でなければ、どんなものであってもまずは肯定されるべきです。それが自己肯定の第一歩です。

したがいまして、同性愛であれ、暴飲暴食であれ、女性から見ればただのガラクタ集めにしか見えない男性の物品収集であれ、他人に迷惑をかけないのであれば肯定されて当然なのです。
ある欲求が優先順位が高いか低いかは、人それぞれが持つ価値観で決まります。仮にある人にとって優先順位が低かったり、否定したいような種類の欲求であっても、別の人か見ればそれは優先順位が高かったり自己の尊厳を保つために必要かもしれません。

欲求の肯定は、自己肯定のみならず他者肯定(他者理解)のためにも重要なことだといえます。

人にとって欲求とは善でも悪でもなく、これを否定することは人間そのものを否定するということなのです。

心の中からさまざまな欲求が湧いてきた時に、それが他人に迷惑をかけることであれば修正することを考えなければいけませんが、そうでなければ「これが欲しいと思っている自分」を冷静にそして評価をせずに観察してみることを、第一ステップとして心がけてみるということも必要です。