【水波霊魂学】瞑想の霊的危険(4)~古来の瞑想は現代には適さない

瞑想の霊的危険

 

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瞑想をする場所について

 

瞑想法は価値ある立派な修行法ですが、瞑想を行なう場所についてあまりに無頓着な方が多いです。

 

瞑想そのものは紀元前から実践されている古い技法ですが、だからといって、それがそのまま現代に通用すると勘違いするから問題が起こるのです。

 

紀元前のインドと現代の日本では霊的な環境がまるで違います。

 

現代は昔のインドのように時間がゆったり流れていて人々のストレスも少なく、一日中座っていることができた時代ではありません。

 

現代の人々は、時間に追われ、人間関係に疲弊し、価値観が多様化して幸せの基準が各人でバラバラになっています。そのような時代に、古代インドの瞑想法をそのまま持ってきましても、現代人にマッチするわけがないのです。

 

それでも仕方なしにそれを踏襲せざるを得ない理由は、現代には現代の状況に即した瞑想法が開発できる人がいなかったからです。瞑想に限らず霊的な技法は物理的な力で何かをするわけではありません。つまり、この世以外の力を求めることによってはじめて実現できるのが霊的技法ですので、そこには霊魂との契約が必要になります。

 

具体的には、こういう形の印を組んだら霊魂はこういうことをします、というように人間の側と霊魂の側が合作して生まれるのが霊的技法であり、それがないのに印を組んで座っていても霊的な効果は何もないどころか、不道徳な霊魂に見つかればイタズラされる危険が高くなるだけです。

 

 

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現代に即した瞑想とは?

 

それでは、現代に即した瞑想法とは何かと言いますと、霊的状況を考慮した瞑想場所の設定や瞑想者の幽体の強化、短時間でも効果が出る方法などが網羅されたものであると言えるでしょう。

 

人が瞑想を行なうという時、心身のリラックスを求める瞑想であっても、願望の成就を願う瞑想であっても、いずれの場合も、幽体は不調になってしまう可能性が高い。そして、真理を求めて行なう瞑想ですら、霊的には同じ結果になってしまう。

霊魂を知らないで行なう瞑想は、役割を終えたのである。

これからは、霊魂を勉強してから行なう瞑想が残るべきである。

真面目な修行者が、霊魂に目覚める事を願うのみである。

 

水波一郎著『瞑想の霊的危険ー瞑想の副作用、霊障を防ぐにはー』第十章 これからの瞑想

 

 

以前にも書きましたが、むかしむかしの霊的状況が良かった時代であればわざわざ霊的状況を気にすることはなかったですし、高級な霊魂が普通にそばにいる時代であればわざわざ霊魂のことを問題にする必要もなかったのです。

 

しかし、現代において、霊魂のことを気にしなければならなくなった理由は、霊的状況が悪化したからです。

 

例えれば、親が子どもの時代には川の水を飲んでも大丈夫でした。ですから、その川の水質など気にしたことがなかったのです。しかし、最近は同じ川の水を飲むとお腹を壊す人が増えました。ですから、水質検査を行なって基準に達していなければ「この川の水は飲んではいけません」と言わないといけなくなりました、ということと同じです。

 

水波霊魂学が、霊魂について勉強することが必要だと主張するのは、現代は『霊魂が目に見えないからといって無視できない時代』になったからです。

 

川に昔と同じように水が流れていても、昔と同じ水質とは限りません。

 

「昔の人が普通に飲んでいた」からといって、今も飲めるとは限らないのです。それでも、「昔と同じだ!」と言って、水を飲めばお腹を壊すだけですし、それでも懲りずに意固地になって飲み続ければ、悲しい結果が待っているだけなのです。

 

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