【水波霊魂学】正義という厄介な言葉(1)
正義という言葉があります。
これはとても厄介な言葉で、これを「正しい道理、人として行うべき道義」と解する人もいれば、宗教的な観念あるいは哲学的視点から解する人もいます。
簡単に言ってしまえば、人によって正義という言葉の意味づけはバラバラだということです。
仮に誰かが誰かを悪と決めつける時、自分は必ず正義です。
正義という言葉が様々に解されているということは、言い換えればそれは絶対的な基準を表す語ではないということです。
人は誰もが何処かしらの国家あるいは集団に属していて、そこに代々受け継がれている道徳的、宗教的観念や社会的規範というものに強い影響を受けています。
そこから各人が吸収し、いわば自家培養したものが正義というものです。
さらに、この正義と善悪がしばしば同一化してしまい、それが大義名分という化学反応を起こした結果、他の国家や集団と衝突することを、人類は現在に至るまでずっと繰り返しています。
特に最近は、自分のモノサシのみを絶対的な尺度にして、あらゆる事象を解釈する『マイワールド』を作り上げている人もいるようで、このタイプの人は自分と違う考え方を無条件に排除してしまう傾向が強く、実証性や客観性を完全に無視しますので始末に負えません。
こういう人がなまじ正義感溢れるような人だった場合、周囲の人は大怪我をする可能性があります。
さらにネットの普及によって、いわゆる正義の名のもとに発せられる意見が、実証性あるいは客観性を持った意見と同列に報じられるという、玉石混淆と言わざるを得ないようなことが起こった結果、ヘンテコリンな意見をもとに一つの世論を形成がされるというさらに困った事態になってきています。
彼らは己の正義を錦の御旗のごとく振り回しますが、このことは正義というものを金科玉条のごとくに扱うことの危険性を示す典型的な例です。
(続く)