『 肉体の死 』によって起こる霊的な問題

肉体の死

 

 

 

残された人達への霊的な影響

 

人は必ず死を迎えます。若くして他界せざるを得なくなった人はさぞかし無念だろうと思いますが、残された人も同じくらい無念であろうと思います。

 

 

他界した人は意識活動は一時的に停止していますし、この世で起こっていることは分かりません。しかし、残された人々は人の死によってさまざまな影響を受けることになります。

 

 

『名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。』で始まる徒然草第38段にもありますように、自分が他界した後にたとえ金銭が山と積み上げられるほどの遺産があったとしても、残された人々にとっては相続などで骨肉の争いに発展することも多く、単なる厄介事を残すだけだったりします。

 

 

葬式に行きますとなぜだか知りませんが親族同士で大喧嘩している場面に遭遇することがありますが、故人が残したさまざまな事が残された人たちにさまざまな影響を与えるということは事実なのではないかと思います。

 

 

このように、残された人々は目に見えるかたちでさまざまな影響を受けるわけですが、霊的な面でもさまざまな影響を受けます。そして、そのほとんどは悪影響ですが、今回はその典型的な例を書いていきたいと思います。

 

 

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霊的観点から見た『 肉体の死 』

 

事故や災害で即死したような場合は別ですが、病気などで徐々に衰弱して死を迎えるといった場合、場所が病院の一室であっても自宅であっても、霊的にある現象が起こっています。

 

 

水波霊魂学では、この世に生きている人間には肉体と幽体が重なっていると主張しています。どちらが主でどちらが従なのかは別として、私たちは地上の世界を生きるためには肉体が必要です。そして、肉体には寿命があります。

 

 

一方、幽体は私たちがこの世に生まれる前から存在していましたし、地上の世界を去った後も次の世界で使用する身体です。したがいまして、肉体のように寿命がありません。

 

 

病気などで肉体が徐々に衰弱していきますと、幽体は『次の世界へ旅立つ準備』を始めます。具体的には肉体と幽体を接着している気(間気)がありますが、これを生産しているのは幽体です。間気が全て消失すれば肉体と幽体の接着がなくなって、これらが分離します。そして完全に分離した幽体が肉体に戻れなくなった状態が水波霊魂学でいう「死」の定義です。

 

 

つまり、幽体は間気の生産を止めるのか少なくするのかして、徐々に肉体から分離する準備を『肉体がまだ生きている時』から始めています。肉体が生きていれば新陳代謝は続いていますし、体を動かしたりしますので、そういった拍子に少しずつ分離していきます。

 

 

最初は手や足が肉体から分離し、次に腰のあたりも分離しました。しかし頭部は肉体と重なっていてただちに死を迎える状態ではありませんが、幽体が肉体からかなりの部分が分離してしまって肉体にはもう戻らなくなってしまいました。そして、最後に重なっていた頭部が完全に分離してしまった時、肉体は死を迎え、幽体は自分が行くべき次の世界へ旅立っていきます。

 

 

幽体は目には見えませんので、分離してしまっても気が付きませんが、霊的な観点から見た「肉体の死」はだいたいこのような感じで進行していきます。

 

 

ただし、前述しましたように、これは徐々に肉体が衰弱して亡くなる場合であって、事故や災害で亡くなる場合はまったく違うことが起こります。この場合に起こる困ったことについては今回は割愛します。

 

 

肉体の死によって引き起こされる問題

 

このように人の死は目に見えない所でもさまざまなことが起こっているわけですが、ここでは人の死によって起こりうる霊的な問題を書いていきます。

 

 

人は生きている間にさまざまな意識活動をしています。当然ながら喜怒哀楽もあります。

 

 

仮に死期を覚った人が、自身の不幸を嘆いたり、死への恐怖や不安を感じることは至極当然のことです。わざわざ口に出さないで平静を保っているように見えても、心の中ではさまざまな思いが去来していることでしょう。

 

 

そういう思いが強ければ強いほど、それが『念』となって周囲に飛びます。これまでに何回か書きましたように、『念』そのものは命中精度は高くありませんが、近くにいますと命中することがあります。これは当てられた側の幽体を傷つけることになります。つまり、心配して必死に看病している人に念が命中してその人の霊的状態を悪くしてしまうという皮肉な結果を招く恐れがあります。

 

 

さらに前述しましたように、幽体は肉体の意思とは関係なく、他界する準備を進めています。肉体と幽体が分離するということは、それまでこれらを接着していた間気という気がその役目を果たさなくなったということなのですが、問題はその気が消失したのか否かです。

 

 

仮に医師が「ご臨終です」と言ったとします。これは医学では死に違いないのですが、幽体と肉体の分離がまだ終わっていなければ霊魂学では死んではいないということになります。さらにこれまで故人の内部にあった霊的な気(幽気や間気)が、肉体の死と同時にきれいさっぱり消失してくれれば霊的な問題は起こらないかもしれませんが、実際はそうではないようで、故人の気を大量に吸い込んでしまうことがあり、それが霊的な問題を引き起こすことがあるようなのです。

 

 

特に臨終直後の場合、肉体と幽体が完全に分離しきっていないことがあって、その場合は故人の気が大量にその場に残っていることがあります。

 

 

ですから、本来は故人のいる場所や通夜葬式に参列した人は、霊的な祓いや霊術を行なったほうが良いのですが、今時そんなことをする人は皆無ですし、せいぜい塩をまいて祓った気になっているのが現状ではないかと思います。

 

 

過去には、僧侶が唱える念仏にも故人の気を祓う力があった時代もあったようですが、現在のように唱えるほうもビジネスのため、唱えられるほうは早く終わらないかと思っているだけといった環境では、そういう力もなくなってしまっています。

 

 

他人の気はたとえ家族であっても、異質なものです。吸い込むことに害はあっても利はありません。

 

 

他人の気を吸い込んでしまうとさまざまな問題が起こります。本当は日常生活でも重大な問題が起こる恐れがあるのですが、不特定多数の方に読まれる可能性のある場所であまり具体的なことは書けません。

 

 

したがいまして、ここでは『たとえ家族であっても他者の気を吸い込むことは霊的に不幸になる原因の一つである』ということをご理解いただけたらと思います。