自由意志とは ~沈黙は拒絶と同じ
祈りは自分と同等の霊魂にしか届かない
じゆういし【自由意志】
他からの強制や拘束を受けることなく、行動を自発的に決定する意志
明鏡国語辞典より引用
至上の神といわれる存在は、人間に自由意志という権利を与えました。
地上の世界あるいは幽質の世界にいる人間は自由意志があるために、たとえ人間を担当する守護霊であっても、人間の側から求めなければ何の手出しもできません。
自由意志というのはそれほど強くて重い権利だということです。
それなのに、現代の人たちの大多数は、自由意志を行使することの意味について恐らく勘違いされているように思います。
例えば、神を求めるという行為の場合、常日頃から神への祈りを欠かさない人がいますが、そういう人達は「神を求めている」という自由意志を行使しています。反対に神を拒絶する人達も「神を拒絶する」という自由意志を行使しています。
もちろん神を求めると言いましても、正しく求めなければややこしい話になるのですが、ここでは正しく神を求めていると仮定して話を進めていくことにします。
神を肯定するのか否定するのか、いずれにしましても何らかの意志表示や行動があれば分かりやすいのですが、問題なのはいつもは沈黙していたり無関心なのに、何か困ったことが起こった時に神を呼べばいいと思っている人たちです。
そのような人が仮に順風満帆の人生を送ってきて、いよいよ他界する時が近づいた時に死の恐怖におびえて慌てて神に祈ったとしても、残念ながら既に手遅れの場合がほとんどです。
このブログにも何回も書いてきていますが、そもそも肉体を持った人間が神に祈っても、その祈りが神に届くことはありません。もし届くとすれば、自分の幽体と同じレベルの霊魂なのです。仮に正しく神に祈っていた人の場合は、神ではなくその人を担当する守護霊とか守護霊を補助する霊魂に思いが届いていれば大成功なのです。
しかし、常日頃から幽体を健全にすることを全く考えてこなかった人が、死ぬ間際になって必死に神に祈ったとしましても、既に幽体は深く傷ついているわけですから、死にたくないという念の力は強力でも霊的なレベルは高くありません。
さらに守護霊や補助の霊魂も自分の担当する人間が見えなくなっていることが多く、自分の担当する人間がどこで何をしているのかさっぱり分からなくて気がついたら他界していたということになっていることが多いのです。
最近は、自宅で臨終を迎える人が増えてきているようですが、まだまだ病院で最期を迎える方が多いと思います。ところが現代では人が死ぬ場所は不道徳な霊魂の巣窟になっている所がほとんどですので、そんな場所で必死に祈っても周囲にいる不道徳な霊魂にしか祈りは届きません。
もし人に 自由意志 がなかったとしたら
もしも人間に自由意志を行使する権利を放棄したとしたらどうなるでしょうか?
それはとても簡単なことです。神々や霊魂が地上の世界へ強制的に介入することを認めるということです。
地上の世界を霊的に汚くする存在を一方的に排除すれば、他界後に下の世界にいって苦しむ人はいなくなりますので、とりあえず地上をうろつく不道徳な霊魂は、上の世界の霊魂から強制的に排除され、元の場所(下の世界)に戻されることになるでしょう。
さらに、高級な霊魂が霊的に質の高い気を一方的に地上におろせば、地上にいる人間の幽体は高い気を吸収できますので、心の奥が安定する人が増えて些細なことで争いが起こる頻度は減っていくでしょう。
ここまで聞けば良いことじゃないかと思われる方もおられるかもしれませんが、地上の世界は動物であれ植物であれ、それらを殺して食べないと生きていけない世界です。また、自分の欲望を満たすということは誰かが損をして泣いているということでもあります。
負けたほうは勝ったほうに対して念を出しますので、これは地上の霊的な環境を汚す原因になりますし、競争は争いや対立を生みますのでこれらも同様に地上の霊的環境に悪影響を与えることになります。
ということは、人間が自由意志を捨てるということは、人間が持つ欲望を神々によって制限されるということです。
欲望の塊が本性である地上の人間がそんな世界に耐えられるはずがありません。
沈黙や無関心は拒絶したのと同じ
自由意志は権利ですので、神々や上の世界の霊魂が地上の世界に干渉することはありません。
神を呼ぶ自由も呼ばない自由も保証されています。神を拒絶する人に神を求めよと無理強いすることはできません。
地上の世界は人間の自由なる意志が保証されている世界ですので、戦争が起こっても災害が起こっても神々や高貴な霊魂が介入することはありません。
何の罪もない人が理不尽なことで苦しんでいても、それは自由意志を行使した結果です。幸福になる自由も不幸になる自由もこれを侵すことはできないということです。
人間の都合の良い時にだけ何かしてくれる神などいるわけがありませんし、そもそも意志表示すらしない人は、態度を保留しているのではなく拒絶しているのと同じです。
なぜなら呼ばないという自由を選択しているからです。最初から拒絶している人も何かあった時にだけ呼ぼうと都合よく考えている人もこれらに無関心な人も、「呼ばない」という自由意志を行使していることは共通しています。
したがいまして、呼ばないということは拒絶しているのと同じ結果を招くということであり、『呼んだ人にしか力は下りない』ということなのです。
古い書物にあるように「求めよ、さらば与えられん」というのが、霊的世界の法則なのです。