悟った という人が救いようがない理由

悟った

 

 

『 悟った 』というのは幻想にすぎない

 
霊的に進歩向上を目指す霊魂のみなさんが暗黙の了解としていることがあります。

 

それは、『悟ったと言ったらもう終わり』です。

 

霊的な世界には法律も何もありませんが、このことは霊的な進歩向上を目指している霊魂であれば当たり前のように知っていることです。上の世界といっても場所は無限にあります。上の世界にいる霊魂は霊的に進歩向上するための努力を欠かしませんし、上には上がいる世界でもありますので、頂上などないわけです。

 

同様に、この世に生きている人間も、「悟る」でも「覚る」でもどちらでも構いませんが、真理を会得することなどできませんし、ましてや欲望、執着、迷いから解放されることもありません。なぜならば、物質の世界というのは霊的な世界から見ればほんのちっぽけな場所でしかありません。霊魂が住んでいる幽質界が『海』ならば、私たちが住む物質界は『海に浮かぶピンポン玉』にすぎないのです。それくらいスケールが違うらしいです。

 
したがいまして、この世で何もかも分かったような気になっていても、それは『井の中の蛙大海を知らず』ということです。

 

 

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悟ってしまうと救いようがなくなる理由

 

いったい、悟ったということはどういうことなのでしょうか?

 

それは自分がすべてを分かっているということです。

 

したがって、他人の異なる言い分を全く受け入れないということです。

 

人間は誰でもミスをします。

 

なぜなら、肉体の脳は必ず老化するからです。

 

仮に若い時に一つもミスをしたことがないスーパーマンのような人がいたとしても、老化によって脳の機能が衰えれば物忘れもしますし勘違いもします。

 

幽質界(死後の世界)で数百年も一生懸命に霊的向上に努力して、守護霊や指導霊といわれる高級な存在になった霊魂でさえ、ミスと無縁ではありません。

 

この世界でも何やら悟ったとか覚醒したとか公言なさる人や、自分の意見が真実であるかのようにそれを他人に押し付けるかのごとし人がおられるようです。

しかし、先ほども書きましたように、人間はミスをしますし、常に己の目線からしか物事を判断できません。

 

それなのに、自分を絶対化してしまって、自分には如何なるミスもあり得ないと思い込んでしまいます。

 

そうなってしまいますと、他人の意見に耳を傾けることなどありませんので、文字通り救いようがない状態になってしまいます。

 

そんなことにならないためにも、決して悟ったなどと思ってはいけませんし、人間にはミスはつきものなので自分と異なる価値観にも謙虚に耳を傾ける姿勢が重要であると言えるでしょう。

悟りや覚醒は憧れかもしれませんが、それは人間である限り、永遠に会得できません。