心が強い人 に憧れる必要はありません

心が強い人

 

 

「 心が強い人 」というのは幻想

 

「心が強い人になりたい」 - 心が疲れてしまったり潰れそうになってしまったいる時、人は強い心をいうものを求めるのかもしれません。

 
しかし、心が強いとはいったいどんな状態を指すのでしょうか?

 
何があっても動じない心が強い心なのでしょうか。将来に不安を抱くことが弱い心なのでしょうか。

 
心が強いというのは、本来とても曖昧な言葉です。なぜなら、心が強いとか弱いというのは自己評価に過ぎないからです。仮に他人から「あなたは心が弱い人だね」と言われたからといって、それもその人の自己評価をこちらに伝えているのにすぎません。

 
更に言えば、心の強い弱いは善悪ではありません。心が強いから善で心が弱いから悪なのではないのです。

 
心の強弱が善悪ではなく、自己評価にすぎないのであればそれは幻想です。心が強くなりたいという気持ちは理解できますが、それを目指しても自分の心の中に幻想を作り出すだけだと思います。

 

 

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心が強いこと=良いことではない

 
仮に心が強いといわれる人が物事に動じない人ならば、それは感情を消しているということになります。感情というのは人に生得的に備わったものですので、それが希薄だったり無理に消そうとすることは心にとって良いことではありません。

 
また、自分の本当の心を偽って、かりに目標に向かって突き進もうとしても肉体的な制約があります。つまり、空腹になれば食べないといけませんし、どんなに寝ないで頑張ろうと意気込んでも、いずれ睡魔が襲ってきてそれに抗うこともできず寝てしまいます。

 
したがいまして、心が強くなれば何事もうまくいくわけではなく、しょせん肉体的の性質には勝てませんので、結果的に新たな壁に突き当たって心を疲弊させることになるかもしれません。

 
肉体的制約ということを考えれば、心というのは決して強いものになりにくいです。

 
ましてや、トラブルが発生すれば、自身の肉体の保護とか家族の安泰にばかり心が向いてしまい、他者を含めた外部への環境のほうにはなかなか向いていかなくなります。それが当たり前であって、あの時、他者に対する配慮が足らなかったといって反省するのは大切ですが、嘆き悲しんだり自己否定することは行き過ぎです。

 
人の心というのは、普通にしていれば弱いものなのです。そして現代社会はそれを自覚しているから個人への教育を行なうのです。

 
ここで大切なのは、弱い心を持つからこそ、他者の弱さが理解できますし、手を引くことができるのです。他人の心情や苦悩が理解できるのは、自分も同じ立ち位置にいるからです。
心の弱い部分を一歩ずつでも強くする努力をしてこそ、時間はかかってもいずれ真の強さに近づけるのだと思います。

 
強いとか弱いとかの基準は、何と比べるかによって異なります。自分より弱いものと比べれば強くて当たりまえですし、逆もまた然りです。

 
心の強弱など他と比較しても、たいした意味など見いだせないのではないでしょうか。

 
人はどれだけ努力しても神様より弱くて当然なのです。

 
ですから、昨日の自分よりも強くあればそれでよいと考えているほうが楽なのです。反省することは大切ですが決して自己否定することなく、一歩一歩前進していければそれでいいと考えてはいかがでしょうか。